神の国の計算法

2025年9月7日(日) 説教
聖霊降臨後第13主日
ルカによる福音書14章25~33節
神の国の計算法
イエスさまの後に大勢の群衆がついてきています。この群衆はどういう人たちだったのでしょう。本日の福音書のすぐ前の方で、イエスさまのたとえ話に登場する群衆がいますが、今日イエスさまの後に従う群衆がこの宴会に招かれた人々に似ています。すなわち、ある人が盛大な宴会の予定を立てて、予め人々に招待状を送りました。当日になって、招待状を送ってある人々のところに僕たちを送ります。しかし、皆、都合がつきません。「畑を買ったので、見に行かねばなりません」とか、「牛を五対(ごつい)買ったので、それを調べに行くところです」とか、「妻を迎えたばかりなので、行くことができません」と、各々都合が悪いというのです。それで、家の主人は怒って僕に言います。「急いで、町の大通りや路地(ろじ)へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい」(21節)と。この人たちが来て座っても宴会の席が満たされないので、「街道や農地へ出て行って、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」(23節)と。そのようにして宴会に人々が集められました。集められたこの人々と、今日、現実にイエスさまの後についてきた群衆は重なります。
今日、イエスさまは、ついて来る群衆に振り向いて言われます。
「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。自分の十字架を負って、私に付いて来る者でなければ、私の弟子ではありえない」(26‐27)と。
そして、言われたことが理解しやすいように、二つのたとえ話を話されました。一つは、塔を建てようとするとき、費用がどれだけかかるか、先ず腰を据えて計算しない者はいないだろう。そして、二番目のたとえは、戦に挑むとき、自分の国の兵が敵側の兵より少ないとわかったら、敵がまだ遠くにいるうちに和解を求めるだろうと。私に従うのもそれと同じだから、腰を据えて計算してみなさいということです。つまり、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらには自分の命さえも脇へ置き、それから自分の十字架を担ってイエスの後について来られる状態かどうかです。
群衆の中のどれだけの人がイエスのお話を理解し、腰を据えて計算をしたでしょうか。きっと群衆のほとんどは、それまでに、教会や社会の偉い立場にいる人から一度も食事に呼ばれることがなかった。それなのに、イエスさまの宴会に招かれて、感動と喜びに溢れたことでしょう。ですから、招いてくれた人の気前良さに自分を委ねている。つまり、イエスはいい人だ、この人について行けば何とかなるという思いのほかに、それ以上想像しようとしてもできない。つまり、腰を据えて計算してみなさいとたとえ話を聞かされても計算ができないのです。一方イエスさまは、二つのたとえを話されてからも、最後の方で厳しく言っておられます。「だから、同じように、自分の財産をことごとく捨て去る者でなければ、あなたがたのうち誰一人として私の弟子ではありえない」(33節)と。
この厳しい言葉で本日の福音書は終わっています。イエスの後について行くために、群衆はどうしたらいいのでしょうか。自らの力では、どうしたら神の国へ行けるか、どうすれば救われるのか分からずに、この世の権力や富からは見捨てられ、虐げられてきた。この人たちが、イエスの弟子として、大好きなイエスについていく道はないのでしょうか。
イエスさまはルカ福音書の他のところでこのようにおっしゃっておられました。
「五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れることはない。あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者である」(12:6‐7)。
これは、教会の偽善者たち、つまり、富の力とこの世の権力を重んじるファリサイ派のパン種に注意し、この偽善者たちが話す言葉や振りかざす力を恐れてはならないと言われたときの勧告の言葉です。
鳥の中でも雀をたとえ話に挙げたのは、小ささを表すためでしょう。富んでいる人や権力者を恐れていれば、自分のことが雀よりも小さくなってしまう。それで、神さまの計算法を出してくださった。「神はあなたがたの髪の毛までも一本残らず数えておられる」と。「あなたがたは、たくさんの雀よりも優れた者である」と。
年を取って、特に、今の季節、夏の終わりから秋にかけて髪の毛がけっこう抜けるので、このまま剥げてしまうのではないかと心配になります。しかし、神さまが数えやすくなるためには、髪の毛があまり残っていない方がいいかもしれないとも思うのですが、そういうことではありません。神さまは、それだけ私たちの隅々まで関心がある、知っていてくださっているということです。髪の毛のみならず、私の骨や関節のすべて、細い毛細血管の流れや動脈や静脈の流れ、大腸や小腸、脳みその仕組み、頭から足先までの暖かさや冷たさ、健康な所と病んでいる所、心で思い描くこと、人々に向かう私の気持ち、喜びや悲しみ、ありとあらゆることを知っていてくださいます。
つまり、イエスさまが示される神さまは、人間を見下ろして天の上に座して、チェスを動かすように人間を動かすような方ではなく、私たちの内外におられて一緒に生きてくださる方。私たちが苦しいときは共に苦しみ、嬉しいときは喜びを分かち合い、私たちの憂鬱な思いや孤独のただ中に一緒におられる方であるということです。つまり、神さまは、私たちと一つになっておられるので、私と神さまがばらばらの状態ではないのです。その 神をイエスさまはアッパ父と呼んでご自分のすべてを委ねて祈っておられました。
ともすると私たちは、神を理解するために、三位一体論のような神学的なアプローチを必要としているのかもしれません。それは、神学的アプローチであって、私たちの信仰とは異なるものと私は理解しております。神さまは、学問的神学の中に存在するのではなく、ご自分が造られたすべての被造物の中に共におられます。雀や野のゆり、青草、海の中の魚、太陽や月や星、あらゆる動物や人間のただ中に共におられるのです。だからすべて造られたものは、自分を造った方、創造主を現さなければならない。それが被造物に与えられた究極な使命なのです。その使命が果たされるときに、被造物は、自分の十字架を担ってイエスの後について行くものになるのではないでしょうか。被造物が神を現す、そこで神の国の計算法は成立します。
僕たちは宴会を開いた主人の言葉に聞いて、急いで、町の大通りや路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人を集めて宴会に招きました。さらには、街道や農地へ出て行って、無理に人々を連れて来て宴会の席をいっぱいにしました。集められたこの人たちは、右と左の区別ができず、天国や地獄の違いもわからず、三位一体論などなおさらわからない人たちです。今日、イエスについてきた群衆がそうです。ただイエスが好きで、その優しさに感動してついてきた。資本主義体制の中で、この世の権力者や富の豊かさによって底辺に追いやられ、虐げられ、教会からも神の救いとは遠いと言われて退けられた人たちです。この人たちを神はご自分を現す器としてご自分の祝宴に招いたのでした。なぜなら、これらの人々には、捨てるほどの持ち物もなく、どこを見ても空っぽの器ばかりで、神の国の恵みを注ぐのにふさわしいからです。神の国の計算法に適している人たちなのです。
私たちはどこに属しているのでしょうか。もしかしたら、与えられた経済的豊かさや名誉、高学歴、これらを神の恵みと勘違いしているために、注がれる神の国の恵みをこぼしてしまったりはしていないでしょうか。もしそうであるなら、敵側に比べて半分しかない兵力で戦に挑むような人と同じです。予算が合わないのに塔を立て始めて、途中でやめざるを得ない人と似ているのです。そういう立ち方をしていれば、いつまで経っても不平不満が止まない歩み方しかできなくなってしまいます。
神の恵みは人の内面に注がれ、その人を成長させます。内面が成長できた人は、自分の命や、命のように大切にしているものを人のために差し出して生きる豊かさを知っています。神の国の計算法がわかったからです。分かち合って空っぽになって豊かになる、この神の国の計算法に合う歩みへと導かれますように祈ります。
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