天使に喜びを

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ルカによる福音書15章1~10節

天使に喜びを

2025年9月14日(日) 説教

先週はルターハウスリトリートが開かれ、全国から集まった牧師たちと共に学び、食卓を囲み、夜遅くまで語り合いました。仲間たちと掛け替えのないときを過ごせたのは本当に幸せでした。ルターハウスを巣立った者が再びルターハウスに戻って来て共に学び合う。毎年9月に行われる定例行事で、私は、迎える側なので準備の大変さもありますが、やはり仲間たちとときを共に過ごすことは嬉しいことです。

今回は、日本キリスト教団の牧師であり、農村伝道神学校の校長の平良愛香さんを講師としてお招きしました。かれは、自分が同性愛者であることをカミングアウトし、特に、性的マイノリティの中で苦しんでいる人たちに福音の光を照らすという召命を抱き牧師になりました。その道のりはどんなに大変だったか、私には想像もできないものと思いました。しかし彼は、その大変さが恵みでした、与えられた試練によって新しい気づきがたくさんあったからですと言って、神さまに感謝していました。

私自身、女だからという理由で牧師になれなかった、それを実現するまでの辛い経験を思い出し、かれの言葉に共感した思いでした。鵠沼に来てから毎年の大晦日には、かれらと食事の会を開いています。特に、家族がいなく、一人で大晦日を過ごす人を招いての食事会ですが、皆さんも、どうぞいらっしゃいませ。新しい人と出会うことによってたくさんの気づきと学びがありますから、大切なことです。

イエスさまの歩みの中心には、社会や教会から虐げられた人たちがいました。その人たちと食卓を囲み、虐げる側にいるファリサイ派や律法学者たちの盾となってくださいました。今日の福音書もそうです。徴税人や罪人と言われる人たち、宗教界の偉い人たちから、神の救いから遠い人と思われていた人たちです。イエスさまは、今日、その人たちと食卓を囲んでおられます。

早速、ファリサイ派の人々や律法学者たちがイエスさまに文句を言っています。「この人は罪人たちを受け入れ、一緒に食事をしている」(2節)と。その文句を聞かれたイエスさまは、三つのたとえを話されます。本日テキストとして選ばれたのは、三つの中の二つ、「見失った羊」のたとえと「無くした銀貨」のたとえです。三番目の「いなくなった息子」のたとえは、今日のテキストとしては選ばれていません。

しかし、どちらのたとえ話も、その後ろには、見失ったものを見つけ出したときの喜びが記されています。「見失った羊」を探したとき、「無くした銀貨」を見つけたとき、「いなくなった息子」が帰ってきたとき、大きな喜びが天と地上の人たちの間に溢れています。

百匹の羊を持っている人は、一匹の羊が迷子になったことに気づくと、九十九匹を荒れ野に残して探しに出かけました。見つけると、近所の人たちを呼び集めて、見つけ出した喜びを分かち合っています。そして、物語の最後には、「このように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある」(7節)と記されています。

私はこのたとえ話を読むたびに、荒れ野に残された九十九匹の羊は大丈夫だったのかと心配になります。しかし、聖書は、その九十九匹とは、悔い改める必要のない正しい人、つまり、自分は悔い改めなくても救われていると思っている、自己義認の中に生きる人のことです。ですから、彼らは、数は多くても、誰かと喜びを分かち合うようなことはできない。まことの喜びを周りや天と天使たちにもたらすことが出来るのは、悔い改めて帰ってきた一人の罪人であるということです。

不思議なのは、悔い改めて帰って来る者が、百の中の五や十でも九十九に比べれば十分少ないと思うのに、一と述べていることです。きっとそれは、ごく小さく、みすぼらしさを描こうとしているのではないでしょうか。ごく小さくみすぼらしくても、悔い改めるところに力はあるのだということでしょう。この世の価値観をひっくり返す考え方です。さらには、悔い改めて帰ってくる者がそれだけ少ないということを表しているのでしょう。

今日の二番目のたとえ話も同じことを伝えています。ドラクメ銀貨十枚持っていた女性が、一枚を無くし、念入りに探し出して、見つかったその喜びを、女友達や近所の女たちを呼び集めて分かち合っています。そして最後に、「一人の罪人が悔い改めるなら、神の天使たちの間に喜びがある」(10節)と。

ドラクメ銀貨一枚は一デナリオンの価値があるもので、一デナリオンが一人の人の一日の賃金であったと考えると、約7~8千円くらいになりましょうか。今最低賃金が上がりましたからもう少し高くなるかもしれません。女性は、喜びを分かち合うために人々を招いていますから、きっと、食事も用意されていると考えられます。すると、食事代にかかったお金は見つけたドラクメ銀貨一枚よりも高かったのではないかと思うのです。

ですから、ほんとうの喜びは、お金の重さによって計られるものではなく、無条件なものであり、だからその喜びは天にまで届くのだということではないでしょうか。天使たちにまでその喜びは分かち合われました。

天使についてはいつかお話したことがあると思いますが、聖書には多くの箇所で天使について書かれています。そこでは、「天使」、または「主の天使」と呼ばれていますが、中には三大天使と呼ばれるガブリエル、ミカエル、ラファエルがいます。クリスマスになると、大天使の一人のガブリエルが登場するので、私たちにはなじみのある天使です。

天使たちが神さまと共にいて、神さまの心を伝えるために人に遣わされます。ルターも天使の存在を認めていました。しかし、今は、あまり天使のことが言及されません。天使はいないのでしょうか。いるとしたら、どうして私たちには気づかないのでしょうか。私は、人間が文明の発達とともにすべての感覚が鈍くなってきていると思うので、天使が傍にいても気づかないだけではないかと思います。ですから、小さくされて虐げられている人、あらゆるマイノリティに生きる人々が私たちのすぐそばにいて、天使の存在を気づかせてくれているのではないかと思うのです。どんどん進んでいる文明の奴隷になって、神さまの前から迷子になってしまっている私たちを連れ戻すために、小さくされた一人は私たちの傍にいます。つまり、私たちが、野原に残された、悔い改める必要のいない九十九人のうちの一人として生きることを好むために、神さまの前から迷子になっているということを、マイノリティの中を生きる隣人が気づかせてくれているのです。

今日、この世の大多数の中に紛れ込まれ、威圧感を感じながらも、仲間はずれされるのではないかと恐れを抱いて生きる私たち一人ひとりを、イエスさまが探しに出かけてくださいました。あなたは、今、どこにいるの?お~い!本来のあなたのありのままでいいから、帰ってきなさい。私があなたのすべての弱さを背負って、あなたと共に食し、語り合い、あなたの孤独を喜びで照らしながら生きるから、一緒に神の前を歩こうと、私たち一人ひとりの名前を呼びながら、出かけてくださっています。そのイエスさまの姿を、私たちのすぐ傍にいて小さくされた一人が現してくれています。病気のゆえに、性指向が同性に向かうということのゆえに、貧しさのゆえに、大勢から少数者とされ、虐げられている隣人が、私を神さまの光に招く天使のように一緒にいるのです。かれらは、決して私たちから嫌悪感を抱かされる相手ではなく、私たちを神さまの前に導くために共に生きる良き隣人なのです。

イエスさまがおられる所で私たちも生きる者でありたい。そして、私たちの群れが、教会から、社会から、偏見と差別がなくなることを祈り、具体的な関わっていけたらと思います。