距離の測り方

2025年8月17日(日) 説教
聖霊降臨後第10主日
ルカによる福音書12章49~56節
距離の測り方
先週は息子の家族が来て海に遊びに行ったりして楽しいときを過ごして帰りました。短い三日間でしたが、鵠沼は本当に涼しいね、鵠沼に住みたいなと、憧れられてしまいました。どうでしょうか。今日も猛暑日になりましたが、鵠沼に住んでいる皆さんは、涼しいと感じますか。
感じ方が異なる。暑さだけでなく、苦しみや悲しみについて、幸いについて、私たちの感じ方は異なります。鵠沼より暑い所に住んでいる人には鵠沼が涼しく感じますが、鵠沼より涼しいところに住んでいる人には鵠沼が暑く感じるでしょう。小さなことで苦しい思いをしている人がいれば、多少の苦しみや悲しみに動じない人もいます。小さなことで幸せを描く人がいれば、あり溢れる豊かさの中にいても不平不満を並べ、もっと欲しい、もっとこうして欲しいと、欲望を働かせ、満たされない思いで生きる人もいます。
それが私たちの生きる風景なのです。しかし、一度しかない人生をどう生きるか、今、一緒にいる人や環境とどう向き合うか、決断を下すのは私なのです。誰も代わりに私を生きてくれることはできません。私も誰かの代わりに生きることはできません。私たちにとって幸いなのは、神さまがその私と出会ってくださっているということです。私がどんな状況の中に置かれても、今、不平不満を並べ、人の陰口や政治家の無能に舌打ちをしているこの瞬間も、神さまはその私と向き合ってくださっている。神さまに背を向いている多くのときを否定できない、その事実のただ中を私たちは生かされているのです。
この猛暑日のただ中に、きっと神さまは涼しいそよ風のように私たちの傍におられる、その神の姿に気づくかどうか、それによって私たちの人生の歩み方はかなり変わって来るのではないでしょうか。
さて、「私が来たのは、地上に火を投じるためである。」(49節)とおっしゃるイエスさまの言葉から始まる今日の福音書ですが、とても厳しい言葉が続きます。
「あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一家五人は、三人が二人と、二人が三人と対立して分かれることになる。父は子と、子は父と/母は娘と、娘は母と/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと/対立して分かれる。」(51-53節)。
家族の中でも摩擦が起きやすい関係性を通して分裂争いの予告が述べられています。最初の、「地上に火を投じるために来た」とおっしゃるときの「火」は何を表しているのでしょうか。火は何かを燃やすものです。ですから、考えられることの一つは、神の審判を表していると言えます。たとえば、ルカ福音書の9章で、イエスがエルサレムに上っておられるということでサマリアの村人たちに歓迎されなかった際、弟子たちが、「主よ、お望みなら、天から火を下し、彼らを焼き滅ぼすように言いましょうか。」(54節)とイエスさまに提案したことがあります。このように、火とは、焼き滅ぼす審判のようなものだと多くの人が理解してきました。
しかし、それに対してもう一つの異なる理解は、同じくルカが記したという使徒言行録の第2章で、ペンテコステの日、集まって祈っていた人たちは燃える炎のような聖霊に満たされますが、その燃える聖霊のこととして理解しています。今日の福音書のテキストがルカ福音書の独自のものと考えると、この説が有力と言えるでしょう。
パプテスマのヨハネも、イエスさまの到来を告げるさいに、「その方は、聖霊と火で洗礼をお授けになる」(3章16節)と述べていました。「聖霊と火で洗礼をお授けになる方」として、洗礼者ヨハネはイエスさまのことを表しています。「聖霊と火で洗礼を授ける」ことについて、ヨハネがわかりやすく、「麦打ち場」のたとえを用いて話をしてくれています。つまり、イエスが手に箕(み)を持ち、麦打ち場を掃き清め、麦は倉に収め、殻を消えない火で焼き尽くされると。イエスさまが授けてくださる「聖霊と火による洗礼」とは、麦と殻を分け、殻が焼き払わられるというのです。火によってもみ殻が燃やされるようです。そしてこれは、とても究極的なことです。つまり、人が救われる、「聖霊と火で洗礼をお授けになる方」、イエスこそ救い主であるということをヨハネはこのたとえ話を通して表しているのです。
ともすると私たちは、麦は救われる人、殻は救われない人のように理解しがちですが、そうではありません。麦が収められている殻は、ある程度のときの中では麦を守る役割をするものですが、やがては分離されなければならないものです。そのように、人が、イエスに出会い、洗礼を受け、イエスさまの歩まれる道を歩くためには、要らない殻を脱ぎ捨てる作業が行われなければならない。脱ぎ捨てるもみ殻とは、この世の価値観です。競争主義のこの世の中で得た成功主義的な生き方、概念や観念的思考、富や社会的地位を命の基盤とする。そうであれば当然、それらがない人を偏見的な視点から見下す。これらがもみ殻のようなものです。
太陽の温度が高く、猛暑が続くただ中で、あまり火の話は聞きたくないのですが、しかし、暑さよりも、もっと私たちを苦しめているものがある。要らない服を脱ぎ捨てずに着ているから、もっと生き苦しくなるのです。ですから、麦打ち場に連れていかれて、一度火の炙りを受けなければならない。聖なる火にあぶられて、本来の自分と殻を分裂させ、要らない殻は聖なる火に燃やしてもらって、自分は本来の自分を生きるように新しく生まれ変わるのです。
このような観点から、本日のテキストの52節からの言葉を吟味してみると理解しやすいかもしれません。
「あなたがたは、私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と。
イエスさまが家族の分裂を述べておられることに驚いておられるのかもしれません。しかし、イエスさまが私の家族とご一緒であるときにこそ、家族間の分裂は起きる。つまりそれば、打算的な関係性が破れるということです。「父は子と、子は父と 母は娘と、娘は母と しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと対立して分かれる」ことによって、神の国を受け継ぐ聖なる家族として、新たに形成されるということです。なぜなら、家族という一単位が変わらなければ社会が変わらない、社会が変わらなければ国が変わらないからです。そして、私の家族が変わるためには、私という個の働きがとても大切になってきます。
イエスさまは、ルカ福音書の14章でこのようにおっしゃっておられます。
「誰でも、私のもとに来ていながら、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命さえも憎まない者があれば、その人は私の弟子ではありえない。」(26節)。
私は、日本に来て、キリスト教の牧師になる学びを始める際に、家から捨てられました。うちは仏教の家で、母親は熱心な仏教徒でした。母にとって私がキリスト教の洗礼を受け、しかも、牧師になる学びをするということは許せなかったのです。その日から仕送りが絶たれ、生活費や学費のすべてを自分でやりくりしなければなりません。ですから、とても貧しかったのですが、その貧しいお陰で私はたくさんいい方たちに出会いました。学費を払ってくださる方がおられれば、学食の食券や図書券をプレゼント、寮費を払ってくださる方々に出会いました。そういう日々があって今があると思い、感謝しています。その大変さの中で自分が破れる体験を何度もしました。イエスさまが授ける聖霊と火の洗礼によって、私は鍛錬されたのです。ですから、聖霊と火の洗礼を受けるということは、きれい事ではありません。しかし、必要不可欠です。
今、私は、仏教もキリスト教もない。すべての宗教は一つの真理にたどりつくための道であると理解しています。宗教のことのみならず、ほとんどの境界線、つまり、私とあなたという、自分と他者との境界線さえなくなってきました。
私たちは、概念の世界から抜け出なければなりません。資本主義が描き出す合理主義、それを通して当たり前に展開される競争心や成功主義的価値観と分裂されて、イエスさまが教えられた神の国の道に移らなければ、いつまで経ってもいらない服を着て自分の殻に閉じこもっている、間抜けな者に過ぎなくなるのです。暑いからこそ、イエスさまが施される聖霊と火の洗礼を受けて、つまり、聖なる火にあぶられて、神さまの愛をたくさん感じられる、幸いな日々を過ごしましょう。この神さまの愛の中に、私たちに必要な癒しの力があり、老いを支える力があり、人と程よい距離を保つ知恵があり、自分のありのままを愛し一度しかない人生を尊んで美しくする秘訣があります。
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