空手来 空手去

2025年8月3日(日) 説教
聖霊降臨後第8主日/平和の主日
ルカによる福音書12章13~21節
空手来 空手去
「腹八分目」が良い健康法として知られています。満腹になる一歩手前の、もう少し食べたいと思うところで箸を置く。健康を維持するための食事の目安として古くから伝えられている食事方法です。
また、最近、ミニマリズムという言葉が流行っています。それを実践する人のことをミニマリストと言いますが、必要最低限の物で生活する人のことです。ミニマリストは言います。生活がシンプルになると食べ方もシンプルになり、心のスペースを作ることにもつながっていくと。
食べ物の量を腹八分目にし、必要最低限のもので生活空間をシンプルにする。それによって心の空間も広くなっていくことは、神に従う人に求められる生き方のように思います。お腹や生活の場、そして心に空白のスペースを作るということは、ある意味、未完成の状態を言うことです。未完成の状態がむしろ良くて、大切にする。なぜなら、神が介入する部分を残しておくということだからです。
先ほど拝読された福音書の中で、イエスさまのたとえ話に登場する人。彼は金持ちでした。さらに、この年、畑が豊作を迎えました。彼はどんな背景を持つ人なのでしょうか。韓国では、財閥のような大金持ちの家に生まれた人のことを金のスプーンと言います。貧しい家に生まれた人のことを土のスプーンと言います。彼は金のスプーンと言われるべき、先代の財産を受け継がれた人なのでしょうか。もしくは、彼自身頭が良く、能力のある人なのかもしれません。人より何倍の汗を流してがんばって金持ちになり、運が良くて今年は畑も豊作を迎えた人なのかもしれません。彼のような人を、この世では、成功を収めた人と言います。
しかしイエスは、その彼にあまり良い評価を下していません。神さまの彼へのかかわり方において、とても厳しい神の姿を描き出しているのです。つまり、神は彼の人生に明日を描かない、厳しく裁く方としておられます。流した汗、眠らず、遊ばず、我慢してがんばって、今の富と名声を手に入れた。自分で得たものなのだから、自分で自由に使って何が悪い?これからの自分の人生のために楽しみにしていていいのではないかと思うのですが、しかし、神は、厳しく振る舞っておられます。
なぜ彼がそれだけ厳しくされているのかを、物語の全体を知っている私たちはわかります。そう、彼はたくさんの持ち物もあった上に、畑が豊作で有り余るほどの収穫があったのに、それを独り占めしているからです。このたとえ話は、遺産相続のために兄弟との間にトラブルがある人の頼み事から始まったのでしたが、財産に執着する態度を批判するためでした。イエスは群衆に向かって言われます。「あらゆる貪欲に気をつけ、用心しなさい。有り余るほどの物を持っていても、人の命は財産にはよらないからである。」(15節)と。
群衆はどんな思いでこの話を聞いていたのでしょうか。誰もが貧しさから抜け出たい、少しでも多く財産を増やして、老後はお金のことで困らない生活をしたい。昔も今も人の生き方に対する考え方はそれほど変わりません。イエスの前に座っている群衆も私たちも、さらにはイエスのたとえ話の中の金持ちも、みんなそういう思いの中で必死に仕事を探して働き、危うい経済状況の中でも商売を営み、がんばっているのです。そういうただ中で、能力があったのか、親の遺産だったのかわかりませんが、この金持ちの人のように、人より多く富を積み上げることもできる。人のものを盗んだわけではなく、自分の力で得た富に対して、またはそれを所有する人に対して、だれが批判することが出来ましょうか。みんなそうなりたいのです。
しかし、神だけがノーと言える。なぜなら、彼の人生の中に神が介入するスペースがどこにもなかったからです。神が介入できないということは、隣人を介入させないということです。つまり、この金持ちは、あたかも一人ですっかりお膳立てしてしまったがゆえに、最早、彼の人生の中には神の出番の余地はない。それなら、もう神には、この「愚かな者よ、今夜、お前の魂は取り上げられる」(20)と言うことしか残っていないではないか。そのような冷酷、無慈悲な暴君の役割しか神には残されていないではないかと、イエスは問うておられるのです。
これは、神に従う人への責任を問うておられるのです。今日は平和の主日としても守っていますが、私たちは、自分の人生を通して、どんな神の姿を現すのでしょうか。キリストに結ばれた私たちの一生涯の課題がこのイエスの問いかけの中にあるのです。そしてそれは、昔から、多くの人々の課題と責任でもありました。
長い世界の歴史の中で、多くの人が迫害を受け、無惨な死を迎え、虐げられる中、どんなに神の介入を望んでいたことでしょう。神よ、この暗闇から救ってくださいと、どれだけの人が切実に祈ったことでしょう。しかし、神ご自身は、沈黙を守られました。ヒトラーによるユダヤ人虐殺の場にも、植民地化されてあらゆる抑圧を受けていた国々の人たちのところにも、地震や津波で一瞬のうちに何万という人が命を失うその場にも、そして、今、6万を超える人たちの命が犠牲にされるなか、なお戦争を繰り返しているイスラエルの武力行為に、神は何の働きかけをなさらない。飢えるお腹を満たすために並んでいた子どもたちが銃弾で倒れて死ぬのを見ても、銃の発射を辞めない者たちを制止してくださる神はどこにもいません。
それでは、神はいらっしゃらないということでしょうか。
ガザ地区のある子どもが言ったという言葉が頭から消えません。「天国に行きたい、なぜなら、天国には食べるものがたくさんあると思うから」と。誰がこの子どもたちから日ごとの糧を奪ったのでしょうか。誰に、この子どもたちから日ごとの糧を奪い取る権利があるのでしょうか。飢餓状態のただ中で、命の危険を感じつつ神の国を描き出す。天国に行けばお腹いっぱい食べられるという希望を、この子どもは神に置いているのです。神の実存を、今、自分の命が危うくされているただ中で明確に現わしているのです。
この子どものように、私が、私たちが神を現すのです。私たちが神を助け、私たちの信じる平和の神を日常の中で現わすのです。平和の神が私たちの人生を通して現わされるとき、世界は平和になります。世界の平和はこの私が作り上げる、それだけの力を私たちは委ねられたのです。その力を神や隣人に対して発揮せず、自分自身のために閉じ込めておくときに、私たちは、イエスさまのたとえ話の中の金持ちの男と同じような生き方しかできなくなります。そして、金持ちの男が神の姿を、暴力的な方のように現しているように、私たちも人を裁く神としてしか現わせなくなります。
優れた能力をもち、社会でそれらしき地位や名声を得て富を蓄えていても、それらが神との関係の中で築き上げられたものでなければ、それは「自分の物」です。他者のために用いることはできません。キリスト者であって富に恵まれていても、祈らない日々を過ごしていれば、自分の物を貧しい人と分かち合うことはできません。日々、神さまとの祈りの交わりを持つ中で得たものだけが隣人と分かち合われるようになります。神との交わりを持つということは、その人の人生のタイムスケジュールの中に神が介入するスペースがあるということです。同時に、隣人の必要に関心を持っているということです。
今日の説教題をご覧になって、何と読むのだろうと思われた方が多いのではないでしょうか。きっと中国からの言葉だと思いますが、韓国では、音読みそのままで、空手来(くうてらい) 空手去(くうてきょ)と読みます。人は、空っぽで生まれ、空っぽで死んでいく。何も持たずに来た私たちは、死ぬときも何も持っていけないという意味です。この世で与えられたものは、この世にいる間によりよく管理するように、貧しい人たちと分かち合って生きるために与えられたものであって、固定させて蓄えるために与えられたものではありません。なぜなら、私たちが生きるこの世は、旅路であっていつまでも留まる所ではないからです。やがて、神の前に立たされるときを私たちは必ず迎えます。そのとき、私たちは神の前に何を差し出すことが出来ますか。キリストとの関わりの中で得たもの、それは、この世の富ではなく、信仰です。神との交わりの中で蓄えられた信頼です。
今晩でも、呼ばれればすべてを置いて行かなければならない、限りある命を私たちは生きています。それゆえに、この日、与えられる一日一日を、貪欲にまみれて、完璧さを追求する生き方をやめて、多少足りなくとも、七分目、八分目までくらいがんばったら、あとは神さまに委ねる。神さまに完成していただくような歩み方をしたいのです。24時間をすべて自分のために使って、完璧を求める生き方をしない。神さまが私の人生を完成してくださるとき、私たちたちの人生はより美しくなります。モナリザも、シューベルトの未完成交響曲も、未完成だから美しく未だに愛されています。
ですから、まるで神などいないと思って生きる人のように、一人でお膳立てしてしまわないで、神が介入されるスペースを作りましょう。その中から、平和を愛し、人の弱さに寄り添う神の姿を現すのです。最後の日には、未熟で、未完成な人生だったけれど、神に助けられて嬉しい人生だったと告白できる、そういう人の生き方をしたいです。
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