カラスの瞑想法

2025年7月27日(日) 説教
聖霊降臨後第7主日
ルカによる福音書11章1~13節
カラスの瞑想法
毎朝一時間歩くルーティンを続けていますが、また一つ学ばされたことがあります。ある日の朝、海岸を歩いていると、烏が海の中に立ってじっと遠いところを見つめていました。初めての光景だったので、適当な距離を取って烏を見つめていました。何かを待っているように、じっと遠くを見つめている。それは、まるで瞑想をしているようでした。そのとき、突然、烏が海の中に頭を突っ込み、口に餌をくわえては素早くそこを離れるのです。一瞬の出来事だったので、口にくわえられたものが何だったか確認もできず、驚いたまま見つめていました。自然界の生存競争の厳しさに圧倒されつつ、餌を捕るために海の中に足を入れて、静かに待っていたその静けさ、忍耐強さ、行動の素早さ、必ず餌が得られるという確信をもっていた、その烏の姿に学ばされた朝でした。
きっと、烏は、餌となるものの動きを感じていたのでしょう。そのことに、確信をもって疑わないこと。そのために、精神を統一して一つのことに集中する姿に感動しました。先ほど拝読された福音書を黙想しながらの散歩でしたので、私には、あのときの烏が、霊的指導者のようだと思ったほどでした。
イエスさまはおっしゃっておられます。
「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。叩きなさい、そうすれば、開かれる」と。
これは、ただの勧めを超えて、約束の言葉です。あなたがた二~三人が地上で心を合わせて祈れば、天の父はその祈りに応えてくださるという、教会への約束なのです。つまり、私たちが天の神さまに対して祈り求めるという行為は、ただ自分の個人的な必要や教会の必要を満たすことにとどまらず、この地上と天を結ぶ尊い働きにつながるということです。それが弟子たちに勧められているということは、キリスト者はその働きのために招かれているということです。地上と天を結ぶ働きに私たちが招かれているのです。とても神秘的で、素敵な働きです。しかし、私たちは、この働きをないがしろにしているのではないでしょうか。粘り強く祈り求めたり、必死に探したり門をたたいたりしなければならないほど、私たちは困っていないからです。つまり、私たちは、貧しくないのです。真夜中に訪ねてくるほど困っている友がいても、差し出そうとすれば、その友の必要を満たすことができる、何もないと言いながらも持っているから、真夜中にもう一人の友の家にまで走らなくてもいい豊さを生きているのです。
それでは、当時は今より貧しかったからイエスさまはこの話をなさったのでしょうか。きっと、たとえ話としては、当時の人たちが聞いてわかる話だったのでしょう。
しかし、イエスさまが最後の13節で、「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子どもには良い物を与えることを知っている。まして天の父は、求める者に聖霊を与えてくださる」とおっしゃるように、今日のイエスさまのお話は、ただ個人的な事柄に止まらない、天を動かす話、天の父を動かして聖霊を与えていただくという、次元の異なるお話でした。
イエスさまは、「あなたがたは悪い者でありながらも」と、人間のことを「悪い者」とおっしゃっておられます。イエスさまが人間を「悪い者」と捉えるということに意外な思いをもつ方もおられるかもしれません。しかし、イエスさまのお話の中には、蛇やさそりも登場しています。イエスさまの話題の中にこれらが登場し、人間が「悪い者」として捉えられている。それは、人間と蛇とさそりは同レベルのものとして位置づけられているという、厳しい捉え方です。
蛇は自然が豊かな鵠沼にもいると思いますが、さそりがいるとはあまり聞いたことがありません。さそりは暑い所にいるものです。ですから、夏の気温が年々上がってきているので、そのうちさそりも共存するときになるかもしれません。さそりの本質は、相手を刺して殺すことです。
こういう話があります。
ある日、蛙がさそりと川を渡ることになりました。さそりが川を渡るためには蛙が必要です。蛙の背中に載せてもらわないと川を渡れません。しかし、蛙は、さそりに刺されてしまうかもしれないと恐れていました。しかし、さそりは蛙に、絶対に刺さないと約束します。その約束はさそりの本音でした。川を渡る途中で自分が蛙を刺してしまえば自分も蛙と一緒に死ぬことになるからです。その言葉に安心した蛙はさそりを乗せて川を渡ります。しかし、途中で、さそりは蛙を刺してしまいます。もちろん、蛙もさそりも川の中に沈んで死にます。約束したのに、どうして?と聞きたくなる話です。しかし、それがさそりの本質なのです。頭の中では自分を乗せてくれる蛙を刺すなど考えないのに、近くにいるものを刺したくなる本質が無意識の中で出てしまったのでした。
イエスさまが人間を「悪い者」として捉える、その理由がここにあります。頭の中では自分のもっとも近くにいる人に被害を与えることなど考えません。しかし、近くにいるからこそわがままを振る舞い、相手の尊厳を無視し、自分のもののように動かそうとする。それができなくなれば、不平不満を並べ、相手の弱さをつついて傷つけてしまう。神さまに対しても自分の欲求を満たす方というイメージの他にあるのでしょうか。「悪い者」ということは、こういう人間の変わらないところを言うのでしょう。自己中心的な者であるということです。
ですから、それは、昔の人間も今の人間も変わらず同じだということです。
今が昔と違っているのは、今は、堂々と人のものを奪っているということです。与えられた大統領という座を利用して世界の経済を乱し、自国の利益のために関税という名前で相手国を上げたり下げたりする。悪を取り除くという大義名分で戦争を起こし、関係のない人々の命を平気で奪っている国々の政治家たち。戦争は悪いと言いながら堂々と武器を売って自分の国の懐を豊かにしている国々。
私たちはそういう地上に住んでいます。そして、私たちも自分ではどうすることのできない悪の性質をもっています。その私たちが、神の救いという無限な可能性に与っているのです。私たちは、自分の身動きをどのようにすればいいのでしょうか。自分も気づかないうちに人を傷つけ、人の尊い尊厳を蔑ろにして、憎しみや偏見という毒針を刺してしまう悪い本質を持っている、その私たちは、こうした世界の動きにただ落胆しているだけでいいのでしょうか。私も救われあなたも救われる道、さらには世界が救われる道を拓いて行かないといけないのではないでしょうか。
その私たちをイエスさまはお言葉をもって訪れ、私たちの本質的悪、自分の力ではどうすることも出来ない弱さのただ中に語り掛けてくださっています。「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。叩きなさい、そうすれば、開かれる」と。この矛盾だらけの地上と天を結ぶために、私たちは、何を求め、何を探し、どこをたたくのでしょうか。
海岸で素早く餌を取って行った烏はその餌を仲間たちと分けていました。今、鵠沼海岸には海の家がずらりと立っているのですが、朝早い時間は営業時間外ですので、塀のところにたくさんの烏たちが並んでいます。そこで待っていた仲間と餌を分かち合う烏を見ながら思ったのです。祈らないのは隣人を必要としないことなのだと。他者なしの、自分一人で生きることを宣言することなのだと。私の扉を絶えず叩いている世界の貧しい隣人が数えきれないほどいるのに、その叩く音を聞く耳を持たず、ただ自分の舌と腹を満足させるためにだけ生きていることなのだと。ですから、「悪い者」です。
今の日本の私たちは、物質的にはほどほど満たされているかもしれません。しかし、精神的にはどうでしょうか。マザーテレサが日本を訪れたときに言っていました。日本は物質的には豊かな国ですが、精神的にはとても貧しいですねと。貧しい精神を豊かにするために、み言葉の奉仕をしてくださるイエスさまの言葉に耳を傾けたいです。「求めなさい、そうすれば、与えられる。探しなさい、そうすれば、見つかる。叩きなさい、そうすれば、開かれる」。隣人のために祈るのです。命を危うくしている人、食べるものに欠けている人、余儀なく差別を受けている人、病気でも病院に行く環境の中にいない人々のために。生まれて一度も愛されたことのない人が私のすぐそばにいるのかもしれません。その隣人の飢えを満たすために、私が一つの場所に静かに留まるのです。求めるものが与えられるまで一つの方向を見つめるのです。私と同じく隣人が満たされていくとき、天の喜び、神さまの喜びはどんなに大きいことでしょう。天の神さまが喜ばれる、そのとき、私たちは、地上と天をつなぐ働き人になったのです。
Youtubeもご視聴下さい。