福音の二重旋律

2025年6月8日(日) 説教
聖霊降臨祭
ヨハネによる福音書14章8~17,25~27節
福音の二重旋律
ある人が旅をしていて、ある村に入りました。村を回っていると、村人たちが、元気がなく、顔色もよくなく、話しをかけても不親切で、旅人はすぐその村を出てしまいました。隣の村に入ると、その村の人たちは顔色もよく、元気で、話をかけるととても親切でした。隣同士なのにと思ってその違いを探してみると、両方の村は、自分の背丈くらいの長い箸を使って食事をしていたのです。最初に入った村人たちは、その長い箸で自分の口に入れようとするから、どんなにおいしいものでも食べられず、満たされないので不満ばかりが募っていました。二番目の村人たちは、その箸で相手の口に入れてあげるようにして互いが満腹に食べていたのです。人間、お腹が満たされなければ、あとは何とかなるのです。
今日は聖霊降臨祭、教会が誕生した日ですが、私たちのお腹、つまり霊的お腹は満たされているかどうか、それを診察してみる日でもあります。暦では五旬祭の日でした。弟子たちは、「私は、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力を身に着けるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)と、イエスさまの昇天の際に言われたお言葉を信じて、都に留まって祈りに専念していました。五旬祭の日に、弟子たちは、先ほど読まれた使徒言行録第2章に記されているように、一同は、「聖霊に満たされ、聖霊が語らせるままに、他国の言葉で話し出した」(使徒2:4)のでした。
彼らは他国語を語りだしたのです。彼らが語り出した他国語、それは、日本語やギリシャ語というような言語学的な言葉の意味ではなく、異言という言葉です。その場には、あらゆる国から来てエルサレムに住んでいる外国人が大勢集まってきました。弟子たちの語りだす異言を聞いた人たちは、各々自分の故郷の言葉で聞くことができたと記しています。ここで言う「故郷の言葉」についてはもっと深く考える必要がありますが、聖霊に満ちて他国語で語り出した人たちは、大学の教授や言語学者でもなく、学問とは縁遠い、ガリラヤという田舎から出て来た人たちでした。だからこそ、集まってきた人たちは驚いたというのです。
このときの出来事を記念して、世界のキリスト教は聖霊降臨祭を祝い、私たちの教会では異言ではありませんが多国語で福音書を読みました。今日は、日本語以外に、ギリシャ語、ドイツ語、英語、ポルトガル語、中国語、韓国語で福音が読まれましたが、みなさんはご自分の故郷の言葉のように聞きとることができましたでしょうか。
さて、今日は聖霊降臨祭ですので、聖霊をいつもより身近に感じるときです。私たちが神のみ旨にふさわしく生きるためにイエスさまが勧められたように生きるためには、聖霊の助けなしには不可能です。聖霊の助けがなければ、聖書を読んでもその意味が理解できません。聖書は小説を読むようには読めないからです。イエスさまは、「私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13章)と新しい戒めをくださいましたが、聖霊の助けなしにこの愛を実践して人を愛することはできないのです。
私はこの年になって思うのです。死んで神さまの前に行ったときに、神さまから、送られた世で何をしてきたのか、イエスが教えたように人を愛したのかと聞かれたら、一度も人を本当の意味で愛したことがないとしか答えられないと思うのです。自分の好きな人や子どもに対して、自分の欲望を満たすようにしての愛し方はしましたが、あの二番目の村の人たちのように、与えられた長い箸を使って、相手の弱さや必要を支えるようには立って来なかった。ですから、今日も、聖霊の力をいただいて、これからでも、イエスさまのように人を愛することが出来たらと思っています。
さて、使徒言行録では弟子たちが語り出した言葉を、天下のあらゆる所から来ていた人たちが各々自分の故郷の言葉で聞くことができました。そこでは、異なる言語や文化を持つ人たちが一つにされ、自分が神さまに愛されている存在だと受け止めています。故郷の言葉で聞くことが出来たとはそういう意味でしょう。
しかし、本日の第一朗読の創世記11章では、同じ言語を使っていた人たちが、ばらばらに散らされている様子が描かれています。一つの言語を使うことが、ストレートに思いを伝えられるという便利さを超え、人の本来の在り方を危うくしてしまうということでしょうか。
シンアルという地に集まった人たちは、住むための町をつくり、自分たちの名をあげようと、天まで届く塔を作ろうとしました。広がるよりは、自分たちだけの都を作って安住しよう。自分の城を頑丈にしておけば、その中で権力も財力も積み上げられ、神の助けなしで人々を支配できると思った。人間のおごりです。この世的権力や技術、富の豊かさにこそ確信を持つ人の姿です。その彼らの計らいは神を侮る行為でした。神は彼らのその思いを貫き、言語を散らしたのでした。ここで使徒言行録の様子と比較することができます。使徒言行録は、多様な文化を持つ人たちを一つに包んでいるのに対して、バベルの人たちにはその多様性が欠如しています。
コンクラーベ(教皇宣教)という映画を皆さんは御覧になりましたか。それを観て学んだことを、今日、一つだけ分かち合いたいと思います。それは、「確信」を持つことの危険さです。私には~を成功させる確信がある、世界を平和にする「確信」があるなど、政治家が良く言う言葉ですが、映画の中でも、教皇になりたい人が自分のヴィジョンへの強い確信を述べていました。しかし、その確信はどこから来ているのか、ということが映画の中で問われていました。自分の野望から描き出される確信は、自分のことしか考えないからです。
私もよく聞きます。救いの確信がありません、救いの確信を得たいのです。教会の宣教の営みも、何か一つの確信をもって進めなければ・・・もう少し若かったとき、私もそういう思いを持っていました。しかし、今はそれがどんなに危ないことかがわかります。なぜなら、人間的確信の中で物事を勧めるとき、神を排除し、異なる意見を持つ人を拒み、異なる言語や異なる習慣のもとで育った人を退け、意見の合う人たちだけが集まるようになるからです。まさに、ドイツのヒトラーはそういう傾向の中で選ばれた人でした。彼はドイツの人々から最大の支持を得て選ばれた指導者だったのです。
それでは、信仰をもつために何の確信がなくてもいいのか。それでいいのです。救いへの確認など、雲が流れるようなものです。確信が得られたと思えばまた不安になる、それの繰り返しの中で疲れ果ててしまいます。私たちの心は常に揺れ動いているからです。しかし、神さまが私たちに対して救いの確信を持っておられるのです。ですから、救いがあるかないかではなく、常に揺れ動くような自分を神さまが信頼し確信を持っていてくださっている、その神さまに自分を委ねる、それでいいのです。
つまりそれは、聖霊は常に流動的であるということです。聖霊は、私たちの信仰が強いか弱いかではなく私たちを支えます。被害者の側に立って弁護しつつ、加害者をも守られます。創世記4章に描かれているカインとアベルの物語を読めばよくわかります。神さまは殺されたアベルを代弁してカインにその命の対価を追求なさいます。それは、自分が犯したことをしっかり認識させるためでした。さらには、弟を殺した罪のゆえに人びとから殺されてしまわないために、カインを守る記をつけてくださいました。
私たち親も同じでしょう。兄弟姉妹同士が喧嘩をしたら、どちらも自分の子どもですから、親はどちらの味方もするのです。
神さまも、私の味方にもなってくださり、私が憎むあの人の味方にもなっておられます。私たち一人ひとりと向き合ってくださり、私たちが、流動的に、包含的に、多様性をもって物事を受け止め、異なる者同士が一緒に生きるように、その道を常に示してくださいます。
そのために、自分勝手な私たちに必要なのは聖霊なのです。イエスさまのように人々を愛し、人々に仕えるような生き方をするためには、私たちに聖霊の助けは欠かせないものになります。つまり、イエスさまが愛されたように愛するという福音を宣べ伝える、その働きに参与しようとすれば、聖霊の働きに導かれることなしには、心を合わせて福音宣教に加わることはできないということです。なぜなら、聖霊に導かれるときにのみ、私たちは福音の二重旋律という働きができるからです。
旋律という言葉は皆さんもよくご存じと思います。音楽の中で最も中心的な役割を果たすメロディーを意味します。福音宣教にもメロディーがあります。それは、いただくこと、そしていただいたものを分かち合うことです。テイクアンドギブ。つまり、神さまからいただいたものを人々に分かち合うということ、これが福音宣教のための二つのメロディー、福音の二重旋律です。
私たちは神さまから長い箸を賜物としていただきました。それをどう使いますか。
イエスさまは、本日の福音書の中で、私たちが福音の二重旋律を生きることができるように、助け主、聖霊がすでに与えられているとおっしゃっておられます。聖霊が私たちの中で祈り、歌っているのです。しかし、何がそれを見出せなくしているのでしょうか。何が私たちの長い箸を自分に向けさせているのでしょうか。今日、このとき、静まりの中で、自分の中にすでに与えられている聖霊を見出し、それに包まれ、福音の二重旋律の働きに生かされるものでありたいです。
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