床を担いで歩きなさい

2025年5月25日(日) 説教
復活節第6主日
ヨハネによる福音書5章1~9節
床を担いで歩きなさい
水にまつわる話は世界各地のあらゆる地域にもあります。お母さんのお腹の中に宿られたときから人は水に守られ、体の70%が水だと言われます。科学が先端を走っている時代になっても、水なしに人間が生きる道はありません。
宗教界においても水は神秘的な力をもつものとして受け止められてきました。たとえば、インドのガンジス川はヒンズー教の聖地です。三度水の中に沈めば、過去と現在と未来の罪が清められると言われ、多くの人が訪れています。遠藤周作はイエス・キリストの復活を描くために、インド・ガンジス川をモチーフにして深い川を著しました。それは、キリスト教とヒンズー教を比較するためではなく、異なる宗教の中に同じ意味のものが行われていることを著すためでした。
ユダヤ教の中でも似たような言い伝えがあったようです。ベトザタの池がその一つです。「ベトザタ」は、「慈しみの家」という意味をもっています。エルサレム神殿の北の端にあったこの池には屋根がついた廊下があり、そこには大勢の病人が横たわっていました。いわゆる湯治場として知られていたのです。池が動くときがあったようで、そのとき池の中に入れば病気が治るという言い伝えがあったようです。実際その中に入って病気が癒されたのかどうか、聖書はそれについては記していません。
イスラエル中から、多くの病人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人々が集まってきて、池を囲み、水が動くのを待っていた。そこを今日イエスが訪れます。そして、三十八年も病気で苦しんでいる一人の人に目をとめられました。
イエスはその人に聞きます。「良くなりたいか」と。
病人の人に「良くなりたいか」と聞くのは、非常識な質問にすら聞こえます。当たり前のことだからです。三十八年間も癒されたいと願って、しかし、癒されなかった病人。その長い期間に費やされた本人や家族の汗と涙と祈りと経済的なもろもろのものを考えると、心身ともに擦り切れ、疲れ果てて横たわっていたはずです。その彼にとって、おそらく、もはや自分には癒される機会はない、誰も、神も助けてはくれない、という実感が全身を浸していたのではないでしょうか。もしかしたら、絶望に安住してしまっていたのかもしれません。イエスの質問への答えから病人の気持ちを十分察することができます。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです」(7節)。
これは、救いへの絶望と共に隣人への絶望をもあらわしています。誰も自分を池の中に連れて行ってくれないからという、責任を他者に課して、癒されない理由として絶望に安住している。希望が失われつつあり、自分を救ってくれる宗教への信頼もないのが、このときの状況でありました。それは、ベトザタの池の傍らのこの病人の存在それ自体が、ユダヤ教という宗教への告発であるとも言えます。
しかし、病人は、そこに救いがあると約束されている場所に身を置いて、三十八年も待っていました。しかし、何も起こらない。水が動いたときその恩恵に預かるのは他人であり自分ではない。
イエスが目をとめて見出したのは、そういう人の姿でした。ですから、「良くなりたいか」という問いは、病人を本来の位置に引き戻すための問いかけなのです。本当に、真剣に良くなりたいか、救われたいのかという問いであるのです。そして、その人を原点に引き戻したところでイエスは、「起きて、床を担いで歩きなさい」と語り掛けて、新しい道へ送り出しています。宗教の言い伝えに朽ち果て、救いへの希望をも失い、絶望に安住してしまっていた人を、イエスの言葉が救います。病人の内面をえぐり出した、「良くなりたいか」という問いかけよって病人の内面を面に導き出し、そして「起きて、床を担いで歩きなさい」と。イエスは言葉によって人の根源をひっくり返し、言葉によって人を救います。病人はイエスの言葉によって横たわっていた寝床、つまり、自分の課題・問題から自分を切り離す作業ができたのでした。
つまり彼は、これまで彼を縛り付けていた病床、あるいは彼が憎みつつ安住していた寝床を、今日から自分で担いで歩ける人になりました。救われたのです。ユダヤ教は体の病気は罪の結果と言われていたと考えると、病人の癒しは罪からの解放、救いそのものです。病人は、イエスの言葉によって、自分の救いが他者から来るものではない、宗教から来るのでもない、自分自身の中に自分を救う力は与えられている、という体験をしています。イエスと一対一で向き合うことによって、人の中にあって潜んで見えていなかった救いの力が明らかになりました。自分の背負うべき重荷に安住するのではなく、むしろそれを担いで歩き出す健全な道を見出したのです。この人を通してわかるのは、救われるということは、自らの苦悩と重荷とを自らが担って歩くことだということです。自分を捕虜にしていた現実を、逆に担って歩き出すこと、それが、イエスとの出会いによって可能になるということです。
私たちもその病床・寝床に安住しているのかもしれません。三十八年も!三十八年というのは、それだけ長い間患っているという状況を表す数字です。私にとってその病床・寝床とは何なのでしょうか。
ベトザタの池の病人はユダヤ教に依存し、昔からの言い伝えに自分を委ねていました。きっと、宗教の力を信じていたのでしょう。私たちにはそういう傾向はないのでしょうか。キリスト教にすがれば救われるという。または、教会、聖書、神学、教理的な事柄から救いを求めたりしないでしょうか。イエス・キリストがあなたのすべての罪を背負って十字架の上で死んでくださったという教え。では、それを信じるなら、具体的に、イエス・キリストが、いつ、この私の罪を背負ってくださったのか、そして、イエス・キリストが背負ってくださった私の罪とは具体的には何だったのか。私が何もしないのに、勝手に私の罪を背負うようなことはありえません。私たちは、どこかで、人が述べた言葉を真似したり、牧師や神学者が言うことをうのみにしたり、教理の中にそう書いてあるからということで、自分が背負うべきものをイエスに背負わせて、つまり、他者のせいにしてしまっている、とんでもない現実をそれでよしとしていないでしょうか。
キリスト教が人を救うのではありません。宗教そのものが人を救う力をもっているのではありません。神が人を救うのです。キリスト教は、イエス・キリストの言葉を通して神と出会います。イエス・キリストを通して神を見つめるのです。イエス・キリスト以外のものは参考文献に過ぎないのです。
そして、イエス・キリストは、今日のベトザタの池の病人と向き合っておられるように、私たち一人ひとりをも見つめ、私たちが横たわっている寝床から私たちを切り離しながら向かい合ってくださいます。「良くなりたいか」と問いかけながら、具体的に関わってこられるのです。何も聞かずにいきなり『あなたの寝床を担いで歩きなさい』とはおっしゃいません。しかし、あえて、「良くなりたいか」と聞く。それは、自分が横たわっている寝床がどんなものかを直視できるためです。
あなたは「良くなりたいか」というこのお声を、今、私たちは聞きました。このイエスの言葉が聞こえたとき、初めてイエスとの出会いが実現されます。そして、『あなたの寝床を担いで歩きなさい』と宣言されたそこが救いの場なのです。自分自身が横たわっていた床から自分が分離され、それを客観的に見つめられたときに私たちはわかります。その床そのものを担って歩き出す力が自分の中にあるということを。宗教ではなくイエスとの出会いによってこそ、私たちは、自分が偉大な神を納める尊い器、神が住まわれる神殿であることに気づかされるのです。イエス・キリストの言葉は、私たちにとって命の根源、私たちが自由に泳げる水そのものです。その水の中で罪から解放されて、自由に泳げる一週間でありますように祈ります。
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