聖霊を受ける

2025年4月27日(日) 説教
復活節第2主日
ヨハネによる福音書20章19~31節
聖霊を受ける
ユダヤ人を恐れて戸口に鍵をかけ、部屋の中に閉じこもっている弟子たちに復活の主は現れて、彼らの真ん中に立たれました。そして、「あなたがたに平和があるように!」と挨拶をしておられます。閉じこもっていた弟子たちは、ユダヤ人を恐れて閉じこもっているのです。ユダヤ人、弟子たちもユダヤ人です。同じ民族なのに、それゆえに閉じこもるほど互いの間に大きな隔たりがあります。イエスを十字架刑に追いやって殺した人たちと、愛する主を奪われて悲しむ人たち。ユダヤ人同士です。同じ神を信じ、同じ聖書から信仰を培い、同じ教会で礼拝をしている、主にある家族同士が、殺す側と殺される側に分かれているのです。
そのただ中に現れたイエスは、「あなたがたに平和があるように」。重ねて、「あなたがたに平和があるように」と。
「あなたがたに平和があるように」。これはヘブル語の「シャローム」という言葉ですが、ユダヤ人にとってごく普通の挨拶です。しかし、今日の「シャローム」は、繰り返されることから、それ以上の意味が込められてあることがわかります。つまり、ここで使われている「シャローム」は、ヨハネ14:27節で言われた平和と同じ意味を持っています。「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」
この言葉は、弟子たちとの別れのお話の中で語られました。イエスさまは、ご自分と弟子たちが平和によって結ばれていることを述べておられるのです。そして、この平和の契約のもとは、旧約聖書のエゼキエル書にあります。「私は彼らと平和の契約を結ぶ。私がこの地から悪い獣を絶やすと、彼らは安らかに荒れ野に住み、森の中で眠る。」(エゼキエル34:24)。神さまは、ご自分の民と平和の契約を結ぶと約束しておられ、それをイエスさまは受け継がれ、弟子たちにも受け継いでおられるということです。
しかし、その平和を受け継ぐためには、聖霊を受ける必要があると。イエスさまは、弟子たちに勧めて言われます。「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と。
イエスさまの平和を受け継ぐ条件として聖霊を受けることが勧められ、それが実現するとき、その人は罪を赦す権限が与えられるということです。聖霊を受けなければ、平和を実現することも、本当の意味で人を赦すこともできないということ。
「聖霊」と聞くとすぐ使徒言行録の2章の出来事を思い出します。弟子たちが一つの場所に集まって祈っていたときに、激しい風が吹き、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、祈っていた一人ひとりの上に留まった、その激しい霊のことを思い出します。
しかし聖霊は、いつもそれほどワイルドに現れなくとも、それがどんなに小さく弱く臨むように見えても、大きな力を持っています。あれだけ重い人の心の扉を開くのですから、どんなに大きな力の主かと思います。自分に害を与えた人を無条件に赦すのです。人と人との間に置かれた隔てを取り壊すほどのその力を私たちもいただきたいのです。
私たちは、人が傷ついていることがわかってもどういうふうにかかわればいいかわからない場合があります。自分の子どもや親、兄弟姉妹であっても、どんな言葉で語り掛けて慰めればいいか、どう向き合ったらその心の深い闇に光を届けられるか、難しいと思ってしまうのです。それは、私たちも傷をもち、それが癒されないまま内面に暗闇が形成されてしまった、傷ついた者であるからです。
長い時間をイエスさまと一緒に過ごしていても、人間的な思いで従っていた弟子たちも、内面に形成されてしまった暗闇の支配から逃れることは出来ませんでした。ですから、イエスさまが十字架で苦しみを受けられたとき、恐れ、逃げ去り、閉じこもってしまいました。イエスさまの十字架刑がもうトラウマにまでなっていたのかもしれません。人間的な思いで従う人にとってイエスさまの十字架は、理解し難い、むしろ躓きになってしまうものということです。
パウロはこう言います。「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(1コリント1:23-24)。
十字架に付けられたイエス・キリストは、「召された者には、神の力、神の知恵である」と述べているのです。
それでは、「召される」とはどういうことなのか。
今日の聖書の言葉で表すなら、「聖霊を受けること」と言えるのではないかと思うのです。聖霊を受ける、つまり、恐れや隔たりから解放されるということ。さらには、自分を追いやった人を赦し、ありとあらゆることに捕らわれている人を解き放つ力いただくということ。そのために弟子たちはイエスに召されたのでした。そして私たちも同じく、聖霊の働きに用いられるために、赦され赦す働きに遣わされるために召され、今ここにいるのです。
聖霊を受けるということの大切さ。聖霊が私たちを包むときにのみ、私たちは回復するからです。思いかけない所で知らずに受けた傷、どんなに頑張っても解決できない人間関係の中で相手に向かう憎悪感。トラウマにまでなってしまっている深い心の闇、それらを癒すのが聖霊だからです。聖霊を受ける、その時に私たちの全体性が回復されます。私たちは結構多くの部分を失ったまま生きています。今の自分が全てだと思い込んでいるだけです。聖霊を受けると言うことは、失ってしまったその自分を取り戻す作業になります。
そしてさらには、傷ついて病んでいる人々に光を届ける働きに遣わされてゆきます。人の内面の深い闇に直接触れる、人の傷を共に担って一緒に生きるという働き人になるということです。そして、聖霊に用いられる人の語り掛けは、それがただの「シャローム」というごく普通の挨拶の言葉であっても、イエスさまのように相手に喜びをもたらす語り掛けになって行きます。
じゃあ、どうすれば聖霊を受けられるのか。私が何もしないでいてもイエスさまがきて息を吹きかけてくださればいいのにと思うかもしれません。そういう無責任な奇跡は起きません。ですから、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない。」(26節)と言って、自分の方へ復活の主を呼び寄せるのです。トマスは、イエスに一対一で対面しています。主に召された者としての意思を表しています。トマスには疑いの人と言うレッテルが貼られていますが、人は、他者が言うことに疑いを持つときに初めて自分のものが形成されます。
それは、聖書に書かれていることも疑ってみるのです。つまり、聖書にはイエスさまが罪びとと食事をしているところがあって、ファリサイ派の人たちから批判を受けておられますが、それを疑って読むときに、私はイエスさまに聞いてみました。「イエスさまはどうして罪びとたちと食事をなさったのですか」と。するとイエスさまは、「私は罪人と食事をしたことはない」とおっしゃるのです。聖書にはそう書いてあるのではないでしょうかと聞くと、「それは、マタイがそう書いているのであって、私は違う」、「私は傷ついて自分を失っている人たちと食事をしたのであって、罪人と食事をしたのではない。」このイエスさまとのやり取りの中で、自分がいかに暗闇の中で聖書を読んでいたのかがわかりました。自分の固定概念が崩されると同時に、失われた一人の自分が取り戻されたような体験をしました。
このようなイエスさまとのやり取りの中で、私たちは聖霊を受けた働き人として遣わされてゆくのです。
健全な疑いをもって聖書と向き合いましょう。牧師の言葉や神学を学んだ人の言葉に聞くのではなく、自分で、直接、イエスに会って聞くのです。トマスはほかの弟子たちの言葉を聞かず、直接イエスに会って確認をしたために、イエスの前にひざまずき、イエスに「私の主、私の神よ」と告白しています。聖霊に包まれなければ、人は、イエスを「私の主、私の神よ」と告白できません。聖霊の働きの中で私たちがイエス・キリストの平和を受け継ぎ、さらにはその平和を周りに受け継いでいく働きに遣わされてゆきましょう。
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