直線ではなく曲線

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直線ではなく曲線

(マタイによる福音書23章1~12節)

2023年11月5日(日)説教

毎週車でルターハウスに通うのですが、圏央道の事故渋滞に巻き込まれたり、横浜新道のいつもの混雑に悩まされたりすると、ときどき、鵠沼とルターハウスの専用道路があればと思います。空中にスカイウェーを作って、まっすぐに走る様子を夢見ながら、毎週通い続けています。

しかし、車の事故の原因の統計を見ると、直線道路での事故が多いようです。それは、直線道路が長い場合、スピードは出ますが、景色もあまり変わらず、居眠り運転になる場合が多いからです。ですから、直線の道ではなく、適当にカーブがあり、時には凸凹している道の方が運転も楽しいし、事故に遭うのも少なくなるというのです。

本来、人は直線ではなく曲線を生きるように造られました。時には風邪をひいたり、流行するウイルスにも感染したり、怪我や病気をしながらこの体を生きるように。そして、内面においても、憂いや悲しみ、暗闇の中で恐れや不安を経験し、その中から喜びや幸いを見出しながら生きるように造られたのです。いろんなことを経験する中で、さ迷ってしまい、遠回りしたために目的地へたどり着くのが遅い場合もあります。

人間だけでなく造られた被造物はすべて、曲線を生きるものとして創造されました。それは、自然界を見ればすぐわかります。木々も、山々も、流れる川も、すべてが曲がっています。自然界は創造の神秘をとてもよく現わしています。種を植えてから花が咲くまで、長いときが必要とされます。土の中に植えたらすぐ花を咲かすものはどこにもありません。種がまかれ、土の暖かさに守られて、ゆっくり芽を出し、それが土の表面に出て来て根をおろしながら大きく成長し、花を咲かすまで、長い時間がかかります。それだけでなく、芽を出すためには適当な栄養と水分が必要です。芽を出してからは太陽の力と雨や風に触れられる、適当な条件が必要になります。花や実りを大きくするためには、要らない枝は剪定されなければなりません。

このように、一本の花が咲くまでには、手間暇がかかるのです。それが神さまの創造の秩序であり、命与えられたものの中に宿る、創造主の神秘です。

しかし、人間だけが直線道路を走ることを願い、そのために一所懸命努力します。特に最近、一週間がどう過ぎてしまっているのかわからないくらい、子どもも大人も忙しくなりました。忙しさの中では、心が急かされます。早く、早くという声が聞こえるのです。動いていないと、自分だけが遅れてしまっているのではないかという不安さえ抱いてしまいます。

先日、テニスの仲間から「とてもいい」と勧められ、パンフレットまで渡されたので、稲村ケ崎温泉に行ってきました。皆さんは行ったことがありますか。お湯が真っ黒で体にいいみたいです。温泉につかりながら海が見渡せます。そこで私は、温泉に入って体を暖めながらじっくり海の方を眺めていました。遠くに船が一隻いるのが見えたので、その船を観察しようして、集中して眺め始めました。しかし、心の中がそわそわしてきて、ゆっくり見つめ続けることをゆるさないのです。「露天風呂に行こう」とか、「サウナに入ろう」とか、心の中は浮かび上がるいろんな提案で落ち着きません。忙しさに慣れてしまった心は、つい忙しい状況を造ろうとしていることに気づきました。忙しさや、知らないうちに忙しい状況をつくることによって、私は神さまの創造の秩序から遠く離れているのです。

この世の資本主義や合理主義は、曲線を生きることをゆるしません。常に直線を目指せと求めます。本来の姿を取り戻して、曲線を生きようとすれば、どんどん遅れてしまいます。そして、以前は、一つのことを企画するときには10年先、20年先を見通すことが求められましたが、今は、100年先を見通すようにと言われますし、それができるようになりました。人工知能がそれを可能にしてくれているのです。人工知能を活用しながら、これからの人類には100年を見通せる直線距離を走ることが求められるのでしょう。

そういう世の中にあって、私たちは、目を覚ましていなければなりません。直線を走る生き方がどんなに合理的に見えても、その道のりは冷たい道です。そこでは、人の悩みや喜びを分かち合ったりすることにはあまり関心がありません。隣りで人が倒れても気づかない生き方です。今、自殺者数が再び増えています。特に昨年の小中高生の自殺者の数は、過去最多となりました。生きる意味を持てない社会、生きる意味を見出せない生き方が強いられているのです。つまり、人の命がゆっくり芽を出して成長し、花を咲かせると言う過程が省略され、苦しみや悲しみ、挫折や忍耐の体験は疎(うと)んじられ、そして喜びや幸福感を味わう余裕を持つことがゆるされないのです。人の命の神秘が、資本優先の政策のために蔑ろにされ、曲がった道を歩みながら自分らしい花を咲かすことなど、ダサいことと思われるようになりました。才能のあるなしが人間関係の重要な基準になったのです。神秘を宿し、限りなき広さと深さをもつ宇宙を現す人間が、人工知能のレベルにまで低下してしまいました。頭だけで生きる世界です。

先ほど拝読しましたマタイによる福音書にも、頭だけで生きる人々がいます。イエスさまはその人々のことを強く批判しています。

つまり、背負いきれない重荷を人に背負わせておいて、自分は指一本も動かそうとしない人。

または、人々に見せるために小箱のひもを幅広くしたりする人。

ここでいう「小箱」とは、羊皮紙(ようひし)に記された四つの聖句がお守りのように収められた箱のことです。四つの聖句とは、出エジプト13:1~10、11~16(初子を献げる)、申命記6:4~9(聞け、イスラエルよ、私たちの神、主は唯一である)、11:13~21(あなたの神主を畏れ、主に仕え、その名によって誓いなさい。他の神々、あなたの周りにいる民の神に従ってはならない。あなたの中に置かれる、あなたの神、主は妬む神である。・・・)です。

このみ言葉が記された羊皮紙(ようひし)が小箱に収められていて、ユダヤ人は祈るときに、それを手首や額にリボンまたは皮ひもで結び付けていたようです。律法学者やファリサイ派の人々はこのリボンや皮ひもの幅を、目立つように広くして額に巻いていたようです。

さらには、衣の房を長くしたり、「先生」と呼ばれることを好む人、つまり、律法学者とファリサイ派の人を気を付けるようにと、イエスさまの批判は続きます。

イエスさまのこの批判は、私に向けられているようで、ドキっとします。「先生」と呼ばれることを好む人。これは私のことかもしれません。長い間皆さんから「先生」と呼ばれている内に、いつの間にか「先生」と呼ばれることを好むようになってはいないだろうかと。

イエスさまは、最後に、このように弟子たちに告げられました。「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と。直線を走る人たちより遅れるかもしれないけれど、曲線を生きることを勧めておられるお言葉です。隣人の貧しさや悲しみに共感し、隣人の喜びや幸いを自分のものとしなさい。それこそ、仕える者の道であり、神さまの創造の秩序の中を生きる生き方であると。

今日は全聖徒主日です。私たちより先に御許に召された信仰の先輩たちを記念する日です。この信仰の先輩たちも、私たちと同じように、その時代の中で、合理的な生き方を求めるこの世と、神の国との狭間で無数の葛藤を体験なさったのだと思います。それでも、あえて主を賛美し、限りない信頼を神さまに寄せてきた私たちの信仰の先輩たちです。そのような賛美と葛藤の体験こそが、ここに生きる私たちと、世を去った信仰の先輩たちを結び付けてくれます。

私たちもこの先輩たちの道を辿って、やがてはイエスさまのこのお言葉を一緒に聞くのです。「あなたがさ迷っていたとき、私はあなたの足が留まる大地となってあなたを支え、風となってあなたの歩くべき方向を示し、星や月となってあなたの暗闇を照らして、あなたと一緒にいたのだ」。こうイエスさまはおっしゃって、私たち一人ひとりを抱きしめてくださるに違いありません。そのイエスさまと一つになる日を喜びの内に望みつつ、先輩たちが歩かれた信仰の道を受け継いで歩き続けましょう。