親の背中

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マタイによる福音書16章21~28節

親の背中

先ほど拝読しました福音書のイエスさまのお言葉は、いつ聞いても厳しいと思います。
私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る」(24~25節)。

この言葉が厳しく聞こえるのは、ほかのところで、イエスさまはとてもやさしく語りかけておられるからです。たとえば、マタイ11:28では、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」とおっしゃって、疲れた人々を慰めておられます。

また、ヨハネ3:16では、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と語られ、トゲトゲとしているこの世に生きる人々に希望を与えています。これらの言葉には何の条件も、人々を分け隔てるようなところもありません。
しかし、「私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る」。この言葉はとても厳しいです。

ここでいう「私に付いて来たい者」と訳されている言葉は「私の後から来たい者」と言った表現です。単純に「私に付いて来たい者」というときは、後ろだけでなく横に並んでいくことも考えられますが、「私の後から来たい者」と言われると、付いて行く者のポジションは決まって、イエスさまの後ろだけが私の立つべき場所になります。つまり、信仰の道を歩むときに、自分がイエスさまとの関係で、今どこに立っているのかをしっかり確認することが求められます。皆さんはどこに立っておられますか。私たちはどこに立っているのでしょうか。

その立場書が、隣人との関係において確認することができます。人と話をする際に、相手の話が終わる前に、まるで相手の話そうとしていることがわかったかのように口を挟んでしまう場合があります。または、人の意見を聞かずに、相手のためにと思って相手の道をすべて整えてしまう場合があります。このようなことは、夫婦関係や親子関係に、あるいは教会の中でも時々あることです。主の弟子ペトロもそういう人でした。
彼は、高い山の上で、イエスさまが光り輝く姿に変わり、エリヤとモーセと語り合うのを見たとき、こう口にしまた。「山の上に仮小屋を三つ立てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、一つはエリヤのために。」ペトロは、こう提案することによって、神さまの栄光を自分の手で司ろうとしたのです。

そればかりではありません。
本日の福音の中にもその姿は表れています。イエスさまが、「ご自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と話されると、ペトロはイエスさまをわきへお連れして、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」といさめ始めたのでした。そのとき彼はイエスさまからはっきりと言われます。「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人のことを思っている」と。

しかし、すぐ前の箇所で彼はイエスさまにとても褒められたのでした。イエスさまが弟子たちに「人々は、人の子を何者だと言っているか」と聞かれると、弟子たちは、「洗礼者ヨハネだと言う人、エリヤだと言う人、ほかに、エレミヤだとか、預言者の一人だと言う人もいます」と答えます。するとイエスさまは、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」と聞かれます。真っ先にペトロが答えます。「あなたはメシア、生ける神の子です」と。そこで彼は、罪の赦しを宣言できる天の鍵を授けられました。他の弟子たちよりも優れた者として立たされたのでした。

しかし、イエス・キリストを生ける神の子、メシアだと告白した彼の中にもサタンは潜んでいました。サタンとは、何か特別な姿をしているのではないのです。普通の人間の姿をしています。私と皆さんの姿をして、自分の営利や合理的考えをイエスさまの道に持ち込んで適用しようとする、そのような欲望をもたらす者をイエスさまはサタンと呼ばれたのでした。隣人との関係において、自分の考えを相手に強いようとすることは、サタン的働きかけをすることだということです。

私に付いて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を負って、私に従いなさい。自分の命を救おうと思う者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る」と厳しく語られたのは、サタンに支配されがちなこのようなわたしたちの傾向をイエスさまは熟知なさっているからです。

それでは、イエスさまに従うために、イエスさまの後ろを歩くということはどういうことなのでしょうか。それは、子どもの成長を考えると分かることのように思います。子育てをしていたとき、私は子どもにいろいろと話をし、子どもが私の話を聞いて理解し、その通り私についてきてくれることを願いました。しかし現実では、子どもは私に反発し、反抗し、私が願う道とは別の道をどんどん歩いていきます。ところが、子どもが大人になって、そのやっていることを見たら、なんと私がやっていたことをそのままやっているのです。食器の洗い方や洗ったものの置き方、洗濯物の干し方、食卓での食べ方など、ぞっとするくらい私を真似ていたのです。私が言ったことではなく、私がやっていることを見て学んだのでした。

子どもは親の背中から学ぶ、これは本当の言葉だとわかりました。そのときから、私の背中は人々にどう見えているのだろうと考えるようになりました。

子どもはどう頑張っても、親より先を歩くことはできません。親の後ろにいてついてくる者です。

神と人との関係もそうです。人が神を超えて歩くことはできません。

確かに私たちは、神の後ろを歩くことの大切さを頭では知っているかもしれません。しかし実際は、自分が神をリードして、神を活用しようとするのです。神のために自分の力を発揮しようとします。もちろん私たち一人ひとりが、神さまの働き人になるのは大切なことです。しかし、神さまの働きは、私がやらなくても、ふさわしい人を通して成り立ちます。神をリードしようとせず、神さまの背中をじっと見つめつづけるとき、私たちは主のより豊かな働き人になってゆくのでしょう。不器用でもいい、のろくてもいい、イエスさまの背中を見つめ続ければいいのです。

イエスさまの後ろからついていくということは、イエスの中に潜んでいる神の臨在の中に入っていくということなのです。つまり、サタンが潜みがちな自我や、欲望にまみれている自分が、神さまの現存の中で、神さまの御腕に抱きしめられるということ。そうすることで、自分の中に君臨する長老や祭司長、律法学者のような自分、イエスさまを訴えて苦しめ、十字架につけようとする自分が退かれるのです。イエスさまのエルサレムへの道を邪魔しようとし、サタンと呼ばれたペトロが退かれ、イエスさまをメシアと告白するペトロが生きるのです。そしてそれは、イエスさまの後ろにいるときにのみ可能なのです。イエスさまの後ろは、神を経験する奇跡の場とも言えるでしょう。

私たちは、長老や祭司長や律法学者的な立派さを主張し続けるとき、私たちには人のおがくずだけが見えます。しかし、その立派さ捨てるとき、自分自身の暗闇を見つめるようになります。イエスさまをわきへお連れするペトロのような立派さを、イエスさまの後ろにいて捨てるとき、私たちは、イエスさまが歩むエルサレムの道が私の暗闇の道であることに気づきます。つまり、イエスさまの後ろにて、私たちは、自分が背負うべき十字架、私の中の丸太が何かを識別することができるのです。その気づきの中で私たちは、私の闇の中にこそ赦しがあり、自由があり、本当の命があることに気づくのです。そこが、イエスさまの死と復活の出来事が起きるエルサレムだからです。