恐るるなかれ

Home » 恐るるなかれ
20230620_081312792_iOS

恐るるなかれ

マタイによる福音書10章24‐39節 エレミヤ20章7‐13節

先週ラジオで聞いた言葉がずっと頭の中を巡っていました。「この世に必要とされる人になりなさい」。まるで大学を卒業して社会人になろうとしている人に向けられた言葉のように聞こえます。しかし、この「この世に必要とされる人になりなさい」という言葉は、実は、誰よりもキリスト者にとって大切な言葉だと思い、自分がどれだけこの世の必要に応えているのだろう、この世に役立つキリスト者としての生き方を、どこかで見失ってきたのではないだろうかと考えていました。

久しぶりに先週は映画を観ました。是枝監督の「怪物」という映画です。坂元裕二さんが脚本を書いていて、カンヌ国際映画祭で脚本賞を受賞しました。シングルマザーの家庭に対する偏見、アルコール依存症、父親の子どもへの暴力、学校のいじめ問題やそれに対応する教員たちの立ち方、マスコミの問題、大人の嘘と秘密、そして、性意識が芽生えはじめる頃の小学生の性的マイノリティのことなどが扱われた映画でした。

今私たちが暮らしている社会の、一人一人が直面していることを脚本家の坂元さんはそのままを描き出していました。どのようにして私はこれらの一つにでも関わって、この世が必要としていることに応えられるのか、私にとって大きな課題が示された映画でした。

さて、本日、福音書の中でイエスさまは、「人々を恐れてはならない」と弟子たちに告げておられます。「人々を恐れてはならない…体は殺しても、命は殺すことのできない者どもを恐れるな」と。イエスさまが弟子たちにこう語られたのは、弟子たちの中に恐れがあったからです。それもそう、弟子たちは、この世での出世を願ってイエスさまに従ったのでした。ですから、人々に自分たちがどう映っているか、強い者、偉い者、優れた者として受け止められているかどうかが気になるのは、当然なことです。特に権力者や経済的な力をもっている人に対して抱く恐れの感情は、権力と富を求める人にとって当然なことなのでしょう。

弟子たちのように、私たちも、たくさんの恐れを抱いて生きています。小さい頃は親を恐れ、学校の先生を恐れ、近所の人を恐れ、上司を恐れ、歳を取れば子どもを恐れる。そして今若者たちの間では、SNSでの中傷を恐れ、携帯を手放せずにいる人も多いです。

恐れるという気持ち。

以前もお話ししましたが、聖書の中には「恐れるな」ということばが365回出てくるそうです。この数字は、人が、毎日、常に恐れの中で生きていることを表します。それだけ人は恐れの中を生きているということです。病気や暴力や死に対する恐れもあります。自分が大切にしなければならないものがある場合、それを失うかもしれないという恐れもあります。今幸せな人は、この幸せがすぐ奪い取られるかもしれないという恐れの中を生きます。

ですから、神の近くで生きることを選択した信仰の先輩たちは、先ずは持ち物のすべてを手放します。執着とそれに伴う恐れから自由になるためです。聖フランシスコも、マザーテレサも、テゼ共同体を創られたBr.ロジェも、本気でキリストの道を歩き出そうとしたときに、すべてを捨てて新しく出発するのでした。聖フランシスコは、着ていた服までも親に返して、裸で家を出たと言われるほど、所有する物に対して生じる恐れや不安や執着を警戒したのです。そしてそれは、自分には背負うべき十字架があることを知る人の賢明な行動でした。自分の十字架を背負うためには、それ以外のものまで背負えないからです。というか、他の物を背負っていれば自分に果たされている十字架を背負うことができないのです。

自分の十字架を背負えたときに、自分の中から恐れを追い出す力が湧いてくるのがわかります。そして、自分が背負うべき十字架を知り、それが背負えるようになったときに初めて、この世に必要とされる人となってゆくのだと思うのです。つまり、この世で人権や生きる権利を搾取され、苛めに遭い、貧しさと闘っている人々と連帯する、そのためにイエスさまは自分の十字架を背負って私に従いなさいと言っておられるのでしょう。だけど、それはそう簡単なことではありません。

本日の旧約聖書の中でエレミヤ。彼は自分の十字架を背負った人でした。しかし、そのために味わう悲しみ、それが恐れを生み出し、彼は嘆いています。周りの人たちや預言者の群れが「平和だ、平和だ」「この国は何の問題もない」と預言をし、ほとんどの偉い人はそう信じていた、そのときに、エレミヤは「暴虐だ、破壊だ」と、神から聞いたことを隠すことなく伝えねばなりませんでした。実際、イスラエルは強い国から攻めのぼられることになるのですが、エレミヤ一人だけがその事実を伝えていたのです。ですから、周りから嘲りや中傷を受けました。変わった者だ、とんでもない奴だと苛められているのです。井戸の中に落とされて命が危うくされたときもありました。彼は、一緒に働く他の預言者たちと喧嘩をしたくない、仲良くしていたいと思うのに、親しかった人たちから訴えられているのです。それで彼は叫びます。「『もう主を思い起こさない。その名によって語らない』と思っても主の言葉は私の心の中 骨の中に閉じ込められて燃える火のようになります」と。徹底して孤独の中に追いやられていくエレミヤですが、そういう状況の中におかれても主の言葉に留まり続けるエレミヤの姿が見えてくるようです。

彼は、実際、自分に暴言・暴力を振るう人々に対して恐怖の感情を抱きながらも、その人々にその自分を委ねるのではなく、自分の骨の中にまで染み込んでこられて自分と共におられる神さまに自分を委ねるのでした。エレミヤは神さまが自分のような弱者を守り、弱者のために戦ってくださる方であると信じたのです。そして、エレミヤの預言は、王や管理職や職業預言者たちにはたわごとでしたが、権力に搾取されている民には慰めと力でした。エレミヤは、神が預言の言葉を通して、虐げられている人々の中におられ、かれらを守る方であると信じました。

そうなのです。神さまは言葉を通してこの教会を牧会し、ご自分の民を養ってくださいます。

私たちの教会では2021年9月より聖書通読をしてまいりました。岡田さんが読む箇所を入力し、みんなの分を印刷して配ってくださって、今週、最後の冊を皆さんの週報棚に入れてくださいました。その冊の最後のページにも書きましたが、こつこととみ言葉を読み続けること、それが私たちに委ねられたことなのです。み言葉を読み続けるとき、食べ物を食べて栄養を取って体が元気になるように、霊的体が築き上げられます。霊の体を丈夫にしていつも若々しくいるときに、人は信仰の道を恐れずに雄々しく歩けます。み言葉がその人の中に生きて働くのですから、大きな力になります。信仰者にとって主のみ言葉の他のものは、力になるものではありません。他のものは体を飾るアクセサリーのようなものです。み言葉からいただいた力によって養われるときに、私たちは、エレミヤのように、たとえ自分を中傷する人がいても、その人々を恐れずに神を畏れ敬い、自分の十字架を背負って黙々とイエスさまの後に従うことができます。虐げられている人々と共に生きるという歩みへ導かれるからです。

イエスさまは、「人々を恐れてはならない」とおっしゃって、「覆われているもので現されないものはなく、隠れているもので知らされずに済むものはない」とおっしゃっておられます。人は皆何らかの事情を抱えて生きています。表面的には、権力と富の豊かさの中で幸せに暮らしているように見えても、中身はボロボロな場合が多いのです。そのボロボロさを、権力と富によって隠しているのです。

だから、神を畏れ敬いなさい。あなたのすべてを知っておられる神を畏れ敬い、神がいるところにあなたもいるようにしなさいと、イエスさまは今日も私たちを励ましてくださっています。

どうか、皆さまの聖書通読の日々が祝福され、最後まで読み通すことができますように。皆さんがみ言葉の力によって自分の中の恐れを追い出して、平安な日々を過ごせますように祈ります。