good friday

Home » good friday
good_friday_cross.jpg.optimal

母と子

(ヨハネによる福音19章16~27節)

イエス・キリストが十字架にかかられた聖なる金曜日です。
イエスの弟子のひとりのペトロは、イエスが捕らえられる直前にこのように言いました。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(ルカ22:33)と。しかし、その覚悟もふるいにかけられると吹き飛ばされました。ペトロのみならず弟子たち全てが無惨にも打ち砕かれたのです。そのように、私たちのどんな固い意志、決意もふるいにかけられる暗闇の夜が来る、それが今日、主の十字架の夜です。

一切を奪い取られる人間。従うことへの覚悟も、愛することも、神への信頼や将来の希望さえも、何もかも奪い取られた者。しかし、「私は裏切りません」と力と勇気を示すような人間にではなく、哀れにもすべてを失い、たださめざめと泣くしかない、その人間にこそ、すべてを委ねて十字架にかけられたキリストの言葉は生きるのではないでしょうか。

今日は、「女性よ、ご覧なさい。これはあなたの子です。ご覧なさい。これはあなたの母です」の、イエスさまの十字架上の言葉をもって分かち合いたいと思います。

子どもと母親の関係。母なしに生まれる人はいません。人間にとって母親は、親を超えて、神様です。母親に愛され、認められた子どもは、世界を舞台に生きると言われます。それだけ母親の愛の強さを述べているのでしょう。

イエスさまも、マリアを母として生まれ、たくさん愛されて育ちました。聖書には、イエスさまの幼児期や少年期の話はあまり記されていませんが、十字架の上で死を目前に、母マリアのことを愛する弟子に委ねる姿からも、母マリアとイエス様との間の深い愛情を察することができます。

皆さんはパッションという映画を見たことがありますか。そこには、母マリアとイエスさまの親しい関係がよく表されています。イエスさまがナザレの家で大工の仕事をしながらマリアと過ごしている頃の微笑ましい生活は、心が温まるような思いでした。イエスさまが大祭司アンナスの庭で鞭打たれて苦しみに遭われる際には、マリアはイエスさまに会うことはできませんが、とても近くにいて、互いの思いが通じ合うような場面があります。離れていても、内面では深くつながっている。十字架の上で母親を思い、母を愛する弟子に委ねる姿で、よくわかります。

それだけ深い信頼の中に親子として結ばれた息子が十字架につけられて苦しみを受けているのです。マリアは、魂が貫かれる思いで、愛する子の死を見つめつつ、十字架の下にいます。できることなら代わりに死にたい、わが子を先立たせる全ての母の思いを身に背負い、今マリアは十字架の上のイエスさまから言葉を授かりました。「女よ、見なさい。あなたの子です」と、母に愛する弟子を指示されたのです。

この場面は、イエスさまの十字架上のお言葉の中でもとても人間的な面を現しています。しかし、このイエスさまの母マリアの姿は、ただの人間同士の親子関係だけではなく、私たちにとってもっと大きなことを示唆しているのではないかと思います。

人類の救い主イエス・キリストを身ごもり、生んで育てられたマリア。そして今、十字架の死を成し遂げ、暗闇の力を破って甦るという神の大いなる出来事の中にイエスを委ねている母マリア。彼女は私たちにとって何でしょうか。カトリック教会ではマリアを崇拝します。神さまよりもマリアへの信仰が強く、母マリアは多くの人の心を慰めています。

しかし、私たちはカトリック教会の信徒でもなく、母マリアへの信仰もありません。けれども、私たちは、イエスと母マリアを通して、私たちとの関係性をいろんな角度からアプローチすることができると思います。今年の私の黙想の中で与えられたことを分かち合いたいと思います。

つまり、母マリアは、私たちが住んでいるこの地球そのものであるということ。地球は母親が子どものありとあらゆる姿を受け入れるように、千差万別な人を受け入れます。身勝手な人間が自己中心的で、経済成長を進めてきたために、地球環境がどれだけ破壊されているのかわかりません。地球の温度はどんどん上がっています。今年も桜の開花がとても速かったですし、夏がだんだんと長くなり気候変動が激しくなりました。しかし地球は、じっと沈黙を守りつつ、人間の愚かさをそのまま受け止めているのです。

わがままな子どもが母のことなど気にもかけずに勝手にわが道を行くように、私たちも、新聞やテレビで環境破壊のニュースを見聞きするけれども、地球の痛みや悲しみにはあまり関心がありません。人間中心主義社会の中を活きる人にとって、その他のことに関心を持つのは難しいのかもしれません。

十字架の上で母のことを思うイエスさまの言葉は、地球のような母を前にしたお言葉なのです。マリアがイエスさまをそのように育てたのです。地球のような愛をもったマリアは、宇宙を収めるほど偉大な人になるようにイエスを育てたのでした。

ですから、聖書が私たちのために描くこの二人の関係は、ただの親子関係を超えています。人の思いをはるかに超えた関係性を聖書は示していると思うのです。

つまり、神様の愛の大きさを、聖書はイエスさまと母マリアを通して証しているのです。傷つけられ、偏った生き方しかできない人間、白や黒の区別をして自分と人を隔てながらも、自分を愛することができず、常に自己中心的な生き方をしてしまう人間を、神さまはそのまま受け止めて愛し、守ってくださっているのです。覚悟を決めてもふるいにかけられれば何も残らない人間の弱さや醜さをそのまま受け止めて、大切にしてくださっています。

今日の聖なる金曜日に、私たちは、その愛に気づきたいのです。ですから、自分と人とを比べない、自分の失敗を快くゆるす、できない自分を受け入れる。今自分の前にいる人に感謝する。そういう日々を過ごしたい。きっと母マリアも、そういうささやかなことを通してイエスを幸いな子どもとして育て、神の子になるように成長させたのではないでしょうか。