マルタの家で起きたこと

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マルタの家で起きたこと

(ヨハネによる福音書11章1~44節)

上の絵の扉には外からの取っ手がついていません。中でノックの音を聞いた人が開けなければ、扉は永遠に開けられません。この絵はウイリアム・ホルマン・ハントの作品で、ヨハネの黙示録3章20~21節を背景にしています。「見よ、私は戸口に立って扉を叩いている。もし誰かが、私の声を聞いて扉を開くならば、私は中に入って、その人とともに食事をし、彼もまた私とともに食事をするであろう」。この扉は、人の心の扉を表しています。イエスさまは、頑なに閉められた人の心の扉の外に立って、心の扉が開くまで叩いているのです。

本日の福音書はラザロの死と生き返りを描いています。ラザロはマルタとマリアの弟で、イエスさまは友人として彼を愛されました。ところが、彼は病気で死んでお墓に葬られます。ラザロが病気だという知らせを聞いたイエスさまは、「この病気は死で終わるものではい。神の栄光のためである」(4節)と言われ、すぐ立ち上がって来ようとなさいません。結局ラザロは死に、それから四日も経ってからイエスさまはユダヤのマルタの家に来られたのでした。

マルタとマリアの二人の姉妹は弟を失った悲しみをイエスさまにぶつけます。遅れて来られたイエスさまを迎えた二人は、「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(21節、32節)と言って、ラザロの死の責任がまるでイエスさまにあるような言い方をします。彼女たちは、ずっと以前からイエスさまご一行を迎えてもてなしていたので、イエスさまが多くの人の病気を癒すのを何度も目撃していたのでしょう。実際マリアは、七つの悪霊と言われるほどの大病をイエスさまに癒していただいた経験があるので、ラザロの病気もイエスさまが癒してくださると、強い確信がありました。イエスさまに失望するのは彼女たちだけでなく、周りの人々も、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」(37節)と口にしてイエスさまに失望しています。

愛する人の死は、生前親しくしていた人に深い悲しみを与えます。イエスさまも泣かれ、憤られます。イエスさまが感情をありのまま現すのはここでのみです。それだけラザロを愛され、そのラザロを奪った死の力が憎かったのでしょう。イエスさまは墓の外に立って大声で叫ばれます。「ラザロ、出てきなさい」と。すると、死んでいたラザロは、手と足を布で巻かれたまま墓から出てきます。死んだ人が生き返ったのです。イエスさまの呼び声を聞いたラザロは、自ら墓の暗闇を通って外へ出てきました。

このラザロは誰を指しているのでしょうか。ラザロが患っていた病は何を現そうとしているのでしょうか。そして、イエスさまとの間の閉じられた扉。扉の内側にいる人はイエスさまに背を向けている人です。自己中心的な思いの中で、思うように動いてくれない周りを批判して、心の扉を固く閉めてしまった人です。一所懸命に働いて成果を出しても努力した分だけの報いが得られない世の中に疲れて、心の扉を閉めてしまった人。他者に対して、神さまに対して死んだ状態になった私なのかもしれません。

神さまなどいないかもしれないと疑うその私の傍で、イエスさまは「ラザロ!」という名前で私を呼んでおられる。イエスさまは、どんどん暗闇の方へ離れて行く私とずっと一緒に歩いてくださいました。一緒に罪人になってくださったのです。そのイエスさまに対して心の扉を開く勇気、それは今自分が立っている位置に気づいたときに与えられることでしょう。今、私たちはどこに立っているのでしょうか。

私の心の扉は、誰も代わりに開けることができません。イエスさまも私が開けるのを待っておられます。ラザロはイエスさまの声を聞いて、自分で墓から外へ出てきました。死者の中からイエスさまの方へ来たのです。イエスさまを迎えてもてなすマルタの家では、死者の復活が起きました。扉を開けば、イエスさまは入って来て一緒に食事をし、私たちもイエスさまからいただきます。それが自分の命の糧となり、他者をもてなす糧になります。死者の復活の出来事は起きる家、私が開いた扉の内側の私の家です。

 

ユーチューブ(説教)はこちらです。
https://youtu.be/h5Q77EYDpbo