立ち上がって、行きなさい

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立ち上がって行きなさい

(ルカによる福音書17章11~19節)

先週は、夏が一気に冬になるような、体が戸惑うときでした。体調を崩さないように、ご自分の健康管理を大切になさってください。

私たちは、四季がはっきりと分かれた国で、恵まれた生活をしています。ですから、季節の変り目への対応は慣れていますが、先週のように一つの季節を飛び越えての対応には戸惑ってしまいます。

このような季節の変り目、季節の境目に対する意識。以前はあまり考えてこなかったことですが、段々と温暖化が進み、環境の破壊が進んでいることを身近に感じるようになりました。私たち一人一人が積極的に環境を守る働きをしていかないといけないと思います。

今日は、イエスさまと規定の病を患っている人々との出会いがテキストとして選ばれています。

「規定の病」というのは、新共同訳では「重い皮膚病」と訳され、もっと古い聖書では「らい病」と訳されていて、ハンセン病のことを指しています。ハンセン病は伝染すると言われて、感染者は家族や社会から隔離させられていました。日本では明治時代になって法律が制定され、隔離政策がとられるようになり、患者の人権が侵害されるようになりました。この制度は1996年に廃止され、2001年に国家賠償請求が認められています。

また、1873年に、ライ菌を発見したノルウェーのアルマウェル・ハンセン医師の名前をとり、ハンセン病と呼ばれるようになりました。ハンセン病は感染力がとても弱く、大体の人はそれに対する免疫力を持っているそうです。そして、今は完治できます。

イエスさまの時代のイスラエルの社会でも、この病気にかかった人は隔離措置がとられます。律法からは、「汚れている」というレッテルが貼られ、家族と共同体から切り離されて、遠くの村へ追いやられていきます。

聖書通読をしておられる方は、昨日サムエル記下3章を読まれたと思いますが、その中でダビデが、自分勝手にイスラエルの将軍アブネルを殺したヨアブに対して「ヨアブの家には漏出の者、規定の病を患う者が絶えないように」(サム下3:29)と、呪いをかけるようなことを述べています。それは、この病気が呪われた人がかかる病気と思われるほど、当時は重いものと理解されていたということです。

呪われている、汚れているというレッテルが貼られることによって、人権が奪われ、自由が奪われ、共同体と繋がって生きる権利が無理に剥奪されるという強制的な隔離措置。

この三年間、私たちも似たような体験をしませんでしたか。規定の病にかかったのではなくても、入院・手術をするような病気であれば、一人で闘わなければなりません。初めて出産を迎えた女性たちの不安の声も聞きました。もちろん、医者や看護師の医療スタッフは近くにいますが、家族や友人の温もりは近くにありません。本来、病気になって不安や恐れの中にいるからこそ、繋がっている、一緒にいる、決して一人ではないという安心感が必要で、そこから病と向かい合う力をいただくのです。

ましてや、コロナウイルスにかかった方々は、その症状に耐えなければならにことにプラスして、周りから受けた偏見的視線によって、どれだけの疎外感を味わったことでしょう。

ガリラヤとサマリアの間の道を通って、エルサレムへ進んでおられたイエスさまは、そういう人たちが暮らす村へ入られました。そこは、「規定の病」にかかって「汚れている」とレッテルが貼られて追いやられた人たちの村です。そこでは、ユダヤ人もサマリア人も一緒です。本来、ユダヤ人とサマリア人は敵対視していたので一緒に暮らすのは考えられないことでしたが、この村だけが、それらの境界線を越えて一緒にいます。

かれらは、まだイエスさまが遠くにいるうちに叫びます。「イエス様、先生、私たちを憐れんでください」と。その叫びを聞かれたイエスさまも叫ばれます。「行って、祭司たちに体を見せなさい」と。かれらを祭司たちのところへ送り出しています。なぜなら、かれらを隔離する最終的な判断をしたのは、祭司だったからです。

レビ記の13章には、重い皮膚病に対する規定が詳しく記されていますが、この病気にかかったかどうかを判断するのは祭司です。規定の病と判断できたら、祭司はその人に、「あなたは汚れている」と宣言しなければなりません。宣言された人は直ちに共同体の外へと追い出され、町から遠くへ隔離されました。ですから、病から癒されたときは、治ったという祭司の宣言がなければ、共同体へ戻ることはできないのです。

彼らは直ちに祭司のところへ出かけます。イエスさまのたった一言、「行って祭司たちに体を見せなさい」という言葉に信頼を置いて出かけます。かれらにとってイエスさまは、初めて会う旅人、見知らぬ人です。その人の一言に信頼が置けるということは、それだけ彼らの中の闇が深かったことを表しています。きっとわらにもすがる心境で毎日を生きていたのでしょう。かれらの思い切った行動を見ると、その内面の絶望感が、どれほど深いものであったかと思います。私には想像することすらできません。

かれらは、祭司たちのところへ行く途中、自分の体が清くなったことに気づきました。規定の病から癒されたのです。かれらはもう汚れていないのです。隔離されなくてもよくなって、共同体・家族の中へ帰られるようになりました。イエスさまの一言が実現されたのです。かれらはまっすぐに祭司のところへいけば、「汚れている」というレッテルが取り下げられ、「清められた」と宣言され、自由になります。

しかし、そのうちの一人が、他の九人から離れて、祭司のところに行かないで、イエスさまのところへ帰ってきました。かれは、大声で神を崇めながら戻ってきて、イエスの足元にひれ伏して感謝しました。この人はサマリア人でした。イエスさまは、そのかれに宣言なさいます。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と。

立ち上がって行きなさい」。どこから立ち上がるのでしょうか。イエスさまの足元から立ち上がるのです。どこへ行くのでしょうか。自分の身に起きた神の大いなる御業を証するために、未だ頑丈な律法の鎖に縛られている人のところへ出かけるのです。余儀なく律法の定めによる暗闇の宣言の下で不安と恐れの中に生きる人々のところへ遣わされるのです。自分がいただいた信頼と確信と自由を分かち合うために、かれはイエスさまの弟子になりました。祭司から受ける宣言よりも、イエスさまの足元の方にある平安の尊さに、かれは気づいたのでした。イエスさまの一言に信頼を置いて出かけ、途中で自分の体に神の業が起きたことに気づいたとき、かれは、イエスさまの働きを担う器としてささげて生きるという本当の自由を味わったのです。かれは、もはや律法による確信より、信仰による自由を味わうことこそ真の道であると知ったのでした。

私は、あなたは「汚れている」とはっきり言われたことはありませんが、長い間、女であるがゆえに「汚れている」という位置におかれていました。女性は牧師職が禁じられていたのです。その背景には、聖書の教えから来る、女性に対する汚れの思いがありました。つい最近のことですが、LCMSのある宣教師は、NRKは女性が聖餐式を執行している故に汚れている、それゆえ自分はNRKのどこの教会でも聖餐式に与からないとはっきり言っていました。

隔離されたりはしませんが、一緒にいるのに排除されている。女であるがゆえに汚れていると思われる。人の心には、このような境界線が引かれたりするのです。それは男女の間のみならず、民族と民族、宗教と宗教、教派と教派、自分と他者の間…私たちは数え切れないほどの境界線を引いています。その理由になるレッテルをもちゃんと貼っています。あれは黒だから、あれはプロテスタントだから、カトリックだから、あれは日本人じゃないからと。そして引いてある境界線を越えることを決してゆるさない。そうすることで、どれだけのものやことが自分から隔離されてしまっているのかわかりません。

その私たちが再びイエスさまの足元に招かれました。そして、「立ち上がって、行きなさい」と、宣言していただきました。遣わされています。貼り付けたレッテルを降ろす働きへ、境界線を引いて差別と除外の感情の鎖に縛られている人々の暗闇の中の光となるように、自由と信頼の道へ遣わされています。もはやあなたがたは清められた者、神の尊い器だから、その器に納められた福音を分かち合うように、私たちはイエスさまから信頼を置かれた者として送り出されていきます。