役にただない僕

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ルカによる福音書17章5~10節

役に立たない僕

以前、自分はどれだけ働いているのだろうと、自分の仕事の数を数えるときがありました。すると、必ずと言えるほど、心の中に不満が積もります。あの人はあれしかやっていないと人と自分を比較するようになるのです。それで、あるときから、それが自分を苦しめることだと気づき、数えることをやめました。働きは自分が選ぶものではなく、与えられるものであることに気づいたのです。さらには、それが恵みであることが分かり、悔い改めました。

ダビデ王は、あるとき、人口調査を行い、戦える兵士がどのくらいいるかを調べました。これは、神さまから怒りを買い、その結果、民全体がひどい疫病で苦しめられました。ダビデは、そのとき戦に次々と勝利し、すっかり高慢になり、今自分には戦に出られる人がどれくらいいるかを調べたくなったのです。そして、部下たちの反対を押し切って、人口調査を実施させます。それにかかった時間は九ヶ月と二十日でした。しかし、このことは神さまの目にふさわしくなかったのです。その結果、ダビデは、神さまから三つの選択肢を迫られます。一つは、七年間の飢饉があなたの国を襲うことか。二つ目は、三か月間、敵の前を逃げ回り、敵に追われることか。三つ目は、三日間国全体に疫病が起こることか。ダビデは、「主の手に陥らせてほしい。主の憐れみは深い。人の手には陥りたくない」と言って、三番目の、三日間国に疫病が起こることを選びます。しかし、疫病によって七万人が死んだと聖書は記しています(サムエル下24章)。

ダビデは、人の数に夢中になり神の力によって戦いに臨むことを忘れていたことを悔い改めます。自分の力を過信し人間の力に頼るとき、人は苦しみを招くようになります。このダビデの物語は、思い上がることによって、自分だけではなく何の罪のない人まで巻き込み、犠牲させられることを教えています。

今日、イエスさまに「私どもの信仰を増してください」と願う弟子たち。かれらの心の中にも、似たような思惑があります。信仰を増すことは力を増すこと、その力があればもっと立派な働きができる。イエスさまのために役に立つ働きができると思ったのかもしれません。ですから、決して悪意ではなく善意の思いでイエスさまに願いを立てました。

しかしイエスさまは、「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に『根を抜き、海に植われ』と言えば、言うことを聞くであろう」とおっしゃって、かれらの願いが的外れであることを指摘されます。つまり、「あなた方には、からし種一粒ほどの信仰もないのだ」ということ。からし種一粒ほどの信仰さえあれば桑の木を抜き海に移して植えることさえできるはず。つまりそれは、自分の中に桑の木のような、人間の力ではどうすることもできない膨大な罪が場を占めている、そのことを、そもそもわかっていないのだという指摘です。

かれらに、イエスさまはこのように言われました。「自分に命じられたことをみな果たしたら、『私どもは役に立たない僕です。すべきことをしたにすぎません』と言いなさい」と。

ここで言われる「役に立たない僕」は、新共同訳では「取るに足りない者」、口語訳では「ふつつかな僕」、文語訳では「無益なる僕」と訳されています。原語は、「必要な」という言葉の頭に否定形を付けて「不必要な僕」という言葉が使われています。日本語訳はいろいろ異なりますが、どの訳語も謙遜を表す言葉です。与えられたことに対して、へりくだること、果たしたことに対して感謝されるに値しない、取るに足りない僕の謙虚な姿勢で働きなさいという勧めです。

それにしても、「役に立たない僕」とか、「取るに足りない者」、「無益なる僕」のような言い方は、あまりにも惨めな表現だと思いませんか。この表現には、文句を言わずに奴隷のように働きなさいというイメージさえあります。

先週の水曜日は、数人の方と今日の福音書について黙想しました。「信仰」って何だろう?「」って誰のこと?最後の方で言われる「すべきこと」とは何のこと?・・・いろいろの疑問を祈りの中で神さまにお聞きし、最後にそれについて分かち合いました。黙想の専門家でもない自分たちを通して、溢れるほど豊かに分かち合うものが与えられることに、私は感動し、心から感謝しました。一緒に集まって祈り、御言葉を黙想し、御言葉に導かれる中で、聖書の本来のメッセージにたどり着くという不思議な体験でした。

そこで私は、「すべきこと」について黙想をしました。私の「すべきこと」とは何ですかと神さまにお聞きしました。その答えは、本日読まれた福音書のすぐ前の方にありました。赦すこと、何度でも、自分に対して負い目のある人に、赦しを宣言すること。いいよ、大丈夫!と。そしてそれは、自分自身に対しても、赦しを宣言しなさい。これがあなたのすべきことであると。

それは、ギブ&テイクの関係から解放されるということでした。私たちは、ギブ&テイクの関係の中にいるとき、親しい関係であればなるほど、互いに対して数えあげます。私はこんなにもあなたのために尽くしているのに、あなたはちっとも分かってくれない。反抗期の子どもに向けて、何度言ったら分かるのと問い詰めたり、老いゆく親に対して昨日も言ったでしょうと責めたりするのです。別れた人に、あれもこれもやってあげればよかった、傷つけたこと、誤りたいこと、これらを私たちは数え上げるのです。

さらには、何度も同じことを繰り返す自分自身に対して苛立ったりしていないでしょうか。歳をとればとるほど、来たことを忘れて再度聞いたり、物を取りに行っては何しに来たのか忘れて手ぶらで戻ったり、同じような苛立ちを何度も繰り返します。

しかしキリストは、私たちが、善いことを何回したのか、悪いことを何回したのか、そのようなことを問うていません。ただ、今、あなたは幸せなのか。仕事が山積みであっても、思いかけないところで老いや死に見舞われても、別れや出会いが思うようにならなくても、あなたは幸せなのか。心は平安なのか。桑の木のような暗闇の力に振り回されて、恐れたり、不安がったりしていないのか。キリストの関心はそこにあります。つまり、今、できていることやできていないことがどれくらいかではなく、あなたの心の平安の源である神さまと向き合っているのか、という問いかけです。

この頃、まだ暑いので窓を開けたまま寝ていますが、朝、目が覚めると窓からキンモクセイの香りが漂ってきます。大宮教会にいたときには、小野さんが、お連れ合いが好きだったものだからと言って苗を買って来られて、それを庭に植えました。今は大きな木になり、毎年秋になると周りがキンモクセイの香りで包まれます。秋の始まりを楽しませていただきました。

鵠沼では、近所の家で咲いているキンモクセイの香りが、私の部屋にまで入ってきて、目覚めたばかりの私の心を幸いにしてくれています。

韓国では、春に咲くチンチョウゲの香りは千里まで漂い、秋に咲くキンモクセイの香りは万里まで漂うという言葉があります。キンモクセイの香りは、特に女性たちに愛されていて、昔は、結婚初夜の新婦の持参物の一つとしても使われていたようです。

朝、キンモクセイの香りに包まれながら、私もキンモクセイの香りのようになりたいと思いました。物理的に置かれている壁や垣根を越えて、いろいろの縛りや制度、さらには桑の木のような膨大な暗闇で占めている人の心にまで入っていって平安を物語れる、勇敢で、恐れのない香りです。そんな自由と幸いをもたらす香りになりたい。きっとキリストの香りはそう。万里にまで漂い、人々の暗い心に平安を届ける人になれたらと思いました。そんな気持ちで朝起き上がるのですが、その思いもつかの間、その日のスケジュールに追われて、万里のどころか一里も歩けずに終わってしまったりします。でもまた明日がある、新しい朝がまたやってくると自分を奮い立たせるのです。

そうです。「すべきこと」とは、自分が赦されていることに気づくこと。あれこれと、できたことやできていないことを数え上げてばかりいる自分が、実は、そのままで神さまの喜びの中に迎えられていることに気づくこと。もっと立派な何かになるために、「私どもの信仰を増してください」と願う私の中には、実は、からし種一粒ほどの信仰もありません。そうではなく、キリストが私の信仰そのもの。ですからそれは、数えたり計ったりできるものではなく、私がキリストの中にあり、同時に私の中にキリストがおられる、キリストと私は一つ。それが信じられるとき、それを信仰というのでしょう。そしてそのときに、私たちは、「私は役に立たない僕で、取るに足りない者」と、素直に心より受け止めて用いられるようになるのではないでしょうか。そしてその私たちの働きは、三十倍、六十倍、百倍の実りをもたらすものになるのです。
人は麦とぶどうを借り入れて喜びますが、主はそれよりもまさる喜びを私たちにくださるからです(詩編4:8)。