断捨離

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ルカによる福音書14章25~33節

断捨離

いっとき、「断捨離」という言葉が流行りました。「断捨離」という言葉をウィキペディアで調べたら、「不要な物を「断ち」「捨て」、物への執着から「離れる」という意味を表す、整理法の一つだと書いてありました。 そして、この考え方は、「ヨガ」の考え方である「行(だんぎょう)」、「行(しゃぎょう)」、「行(りぎょう)」という、頭の字を取って使われているということです。

行(だんぎょう)」、「行(しゃぎょう)」、「行(りぎょう)」。まさに仏教の言葉ですが、キリスト教の中でもとても大切にされている信仰の道だと思います。

こうした宗教的感覚から離れたところで、普通に流行るくらい、人は断捨離を求めているのだと思います。どうして人は、周りのものを整理し、必要ではないものとの関係を絶って離れようとしているのでしょうか。それは、シンプルになりたいから。答えはこの一つに集約されると思います。自分の周りをすっきりさせて、本当に大切なこと、真実なことにシンプルに集中し、様々な煩いから解放されたいのです。しかし問題は、それがなかなか思うように進まない。ですから断捨離を修行として理解し、呼吸と身体の動きをあわせて心と体をひとつにするような「ヨガ」の修業も行われるようになったのでしょう。

私は、毎日一つを捨てようと決めてやっていたときがあります。捨てたものをすぐにゴミに出さないで、一箇所に集めておいたのです。季節の変り目に出してみて、まだ使えそうに思えたり、思い出がよみがえったりして、結局捨てられなくなりました。物に対する執着です。

人間関係においても同じです。親や子どもに対して、兄弟姉妹、さらには自分自身との関係においても、ぎゅっと強く握り締めています。自分のものと思うからです。私の父、私の母、私の息子、私の兄や姉。そしてなかなか厄介なのが財産のことです。財産に関しては、人間関係より遥かに強い執着が人にはあるかもしれません。

今日イエスさまはそれらすべてに対して「憎まない者は、私の弟子ではありえない」とおっしゃっておられます。血筋で繋がっている骨肉よりも、己自身よりも、一所懸命に働いて積み上げた財産よりも大切なことがあると。「先ず私イエスとの関係を優先しなさい」と。一瞬、イエスさまはとても厳しいことを求めておられるように思います。妄信的に信じることが要求されているようにも聞こえます。

しかしそうではありません。ここでは、とても大切なことが述べられています。イエスに従う人にとって究極的救いとは、イエスさまの人格そのもの、イエスさまご自身だということ。だからイエスさまは「先ず私の家族になりなさい」と私たちを呼んでおられるのです。

私たちは、イエスさまも預言者の一人で、他の預言者たちのように神さまの言葉を代弁する方だと思ってしまうことがあるかもしれません。そのとき私は、外からの声としてイエスさまのお言葉を聞いています。しかし、イエスさまご自身が私の救いであると気づいたとき、イエスさまのお言葉は、私の内に宿り、そこで響いていることに気づくのです。ですから、イエスさまと私は一つなのです。そこに私たちは、自分自身の救いの完成図を見出します。

そのことをイエスさまは、ヨハネ福音書の中でこのようにおっしゃっていました。「かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(14:20)と。

しかし、そのイエスさまの中に入っていくのが何と難しいことでしょう。イエスさまの中に入って行く入り口は小さいのに、私たちはあまりにもたくさんのものを持っているからです。

昨日、ベイビー・ブローカーという韓国の映画をシネコヤで見てきました。万引き家族の是枝監督も推薦し、パラサイトのソンガンホ監督も推薦している映画です。家族のあり方を描いています。性売買をするところで働く女性が、思わぬ妊娠と出産で生まれた子どもを教会が運営するベイビー・バンクに預けたものの、ブローカーの手に渡ってしまう。そこから、赤ちゃんを売って儲けようとするブローカーたちと、赤ちゃんを産んだお母さんと、それを見張って現場逮捕しようとする刑事たちとの物語がはじまります。つまり、責め合ったり、追いかけ、追われたりしていた関係が、赤ちゃんを囲んで一つになり、最後は、互いの罪を担い合おうとする尊い関係に変ってゆく、まさにイエスの家族を描いたような物語でした。産んだ子どもを捨てた罪も、殺人の罪も、家族の中では赦されるのです。

映画を見終わった私は、その家族の一員にならないかと語りかけられた思いでした。(来週の日曜日までやっているので、ぜひ、皆さんも観てみてください。)

新しい家族の経験と言えば、似たような体験がこの夏にもありました。

8月は、夏休みをいただいて東北へ出かけたり、青年たちを引率して長野の湯の丸高原のシャローム・ロッジに出かけたり、久しぶりに遠出をしました。特に青年たちとの集まりは、とても有意義なときでした。6時に起きてラジオ体操をし、それからテゼの歌とともに朝の祈りと朝食。江本先生がテモテについて準備されたことを学び、私も聖書の読み方について一コマを持ち、そして、青年のリードでそれぞれの信仰体験を語り合いました。午後は、山道を通って湿原の方へハイキングに出かけ、それから温泉。朝夕の祈りのときには蠟燭を灯し、夜は焚き火を見つめ、身体も精神も魂も満たされたときでした。その中で創造的なことが話題に上がり、次の新しい始まりへと繋がって行くという、当初思ってもいなかったことがどんどん生み出されました。イエスさまの家族になろうとする新しい始まりです。それだけ豊かな3日間だったので、最後の日、お庭で行われた聖餐礼拝では胸がいっぱいになりました。

そしてそれは、神さまがエリヤに語りかけられたお言葉を思い出す豊かなときでした。「わたしはイスラエルに七千人を残す。すべて、バアルに膝をかがめず、これに口づけをしなかった者である」(王上19:18)。

この言葉は、当時、王妃であったイゼベルを恐れてホレブ山に逃れて洞穴の中に隠れていたエリヤに臨んだ言葉です。

神さまは逃れてきたエリヤに聞かれます。「エリヤよ、ここで何をしているのか」と。するとエリヤは、「私は万軍の神、主に非常に熱心に仕えてきました。ところがイスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、預言者たちを剣にかけて殺しました。ただ私だけが一人残ったのですが、彼らはこの私の命までも取ろうと狙っているのです」(王上19:14)。

エリヤの弁明に対して神さまは言われます。「来た道を引き返しなさい。…私はイスラエルに七千人を残す。すべて、バアルに膝をかがめず、これに口づけをしなかった者である」と。

この言葉を本日の福音書のイエスさまの勧めに照らし合わせるなら、私の弟子になる覚悟ができたものには、七千人という、限りない祝福が用意されているということです。つまり、断捨離を始める者、来た道を引き返す者、信じて従う人の現実とは、神さまが用意してくださる七千人という、限りない祝福に自分を委ね、血縁の繋がりで結ばれている家族をもその祝福に委ねること、それが弟子になる者に求められているということです。

今、献身者が生まれない、牧師になる人が少ない、これからの教会はどうなるのだろうという心配と不安がどの教会にもあります。親や子ども、兄弟姉妹との関係を絶たないと牧師になれないと思うと、やはり献身する人は少ないという落胆の中で、私たちは教会のヴィジョンを描き出せずおどおどとしていないでしょうか。本日の福音書をうわべだけ読めばそのような気持ちにもなってしまうかもしれません。

しかし、本当は、イゼベルを恐れてホレブ山の洞穴に隠れたエリヤのように、私たちは何かに恐れ、本当の意味でイエスの家族の一員になって、弟子として仕えることに躊躇しているのではないでしょうか。イエスさまの家族が、貧しい人たちや体の不自由な人たち、社会の中心から遠く追いやられて、罪人扱いをされている人たちで構成されているのを知り、それを眺めるばかりで、入っていくことを躊躇している。なぜなら、私たちは持っているものが多くて、イエスさまの家への入り口からは入れないのです。そして、もっているものを手放す勇気がないのです。

「断捨離」とは、他の言葉に置き換えるなら、「来た道を引き返す」ことだと思います。エリヤのように、「私は非常に熱心に仕えて来ました」と自己を正当化し、不安と恐れに追われて歩いてきた道から、本当の知恵の道へと移って行くのです。その知恵の道のりは長く、なるべく荷物を軽くしなければ歩き続けることは難しい。さらには、仲間の重荷を担い合って一緒に背負うためにも、自分の重荷を減らすのです。そうやって私たちはイエスさまの家族になっていく。牧師になる献身者はそういう歩みの中から生まれます。