私から私たちへ

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ルカによる福音書11章1~13節

私から私たちへ

雨で湿度が高かったり、突然猛暑日が訪れたり、天気と付き合うのが難しいくらい、私たちは、変化の激しい7月を過ごしています。昨日の朝からセミの鳴き声が聞こえて、やっと夏が訪れたと思うと猛暑ですね。猛暑日の陽射しは、外に出ることを躊躇わせるほど強いですが、イエスさまがおられたパレスチナ地方の陽射しもそうだったと思います。ですから、旅をする人は、昼間の暑い時間帯を避けて、陽射しの弱い夕方になってから旅を始めます。旅と言っても、旅行のような大げさな旅ではなく、日常の用事を果たすために出かけることも多かったと思いますが、どちらにしても、夕方から夜にかけての旅は、人の世話に頼らなければなりません。泊まる所も必要です。ですから、パレスチナ地方の人たちにとっては、旅人をもてなすということは日常のことだったと思うのです。

さて、今日の福音書のイエスさまのお話の中に登場する人の家にも夜旅をする人が訪れました。真夜中に訪ねてきた友人をもてなすものがなく、もう一人の友人の所に駆けつけ、真夜中に戸をたたかざるを得ない。この人の生活は、その日、その日を食べて生きるような、とても貧しい生活だったのでしょう。そしてその貧しさが、突然訪れる旅人によって切実に知らされますから、真夜中に訪れる旅人とは、心を悩まされる人でもありましょう。この貧しい人は、その痛みを抱えたまま、真夜中の道を、もう一人の友人の所へ走り出し、そして戸を叩くのでした。

イエスさまは、戸を叩かれた人のことをこのようにお話されました。「友達だからということで起きて与えてはくれないが、執拗に求めば、起きて来て必要なものを与えてくれるだろう」と。

このイエスさまのお話は、真夜中であっても、食べ物を求めて戸を叩く友人の忍耐に強いられて人がその要求を受け入れるとすれば、慈しみ深い天の神さまは、私たちの必要のために、それ以上のものを与えてくださるに違いない、ということを教えておられます。

これは、弟子たちから、「主よ、ヨハネが弟子たちに祈りを教えたように、私たちにも祈りを教えてください」と尋ねられたことに対して、祈りを教えてくださった後に教えられた、祈りの大切さを伝えようとイエスさまが話された物語です。イエスさまは弟子たちに、こう祈るように教えられました。今私たちが祈る「主の祈り」がそれです。「父よ、御名が聖とされますように。御国が来ますように。私たちに日ごとの糧を毎日お与えください。私たちの罪をお赦しください。私たちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。私たちを試みに遭わせないでください」。

いつか主の祈りについて丁寧に学ぶ機会があればと思っています。今日は、主の祈りの中から、「私たち」と祈っていることを中心に、皆さまと福音を分かち合いたいと思います。

そうです。主の祈りは、「私」ではなく、「私たち」と祈りなさいと教えています。

私たちが、「私」ではなく、「私たち」という意識をもって祈ることは何を意味するのでしょうか。人は「私」の世界に留まっているということは、隣人を必要としない、さらには神さまをも必要としないことを意味します。私さえ良ければという世界、人の意見を聞かなくても、人に合わせて何かをしなくてもいいから、とても楽で、自由な世界のように思えます。

しかし、本当はどうでしょうか。楽さや不便さ、自由や不自由は、人との関係があるから生まれるのでしょうか。そうではなく、それらは、「私」という自我を張って、エゴの強さを面に出そうとするときにこそ現れるものではないでしょうか。

ですから、逆に言えば、「私たち」という世界の中に留まって、隣人との結びつきの中で、小さなものでも分かち合い、ささやかなことでも慰めあって祈りあい、励ましあいながら一緒に生きようとするときに、不自由さや不便さというような壁はなくなってゆきます。むしろ、本当の自由を味わい、共に生きている、隣人によって生かされているという喜びで心は満たされます。

そして、もっと大切なことは、その隣人が、私に自分の貧しさを気づかせてくれるのです。イエスさまのお話の中の人は、真夜中に訪ねてきた友人を通して、自分の貧しさに気づきました。今の自分に何もないということに気づかされたのです。その時に彼は、それを得るために、躊躇することなく、真夜中の道を走って友人の家の戸を叩きました。この人は、訪ねてきた友人を通して自分の貧しさに気づいた幸いな人なのです。

どうでしょうか。私たちは、自分の貧しさを知らせてくれる友人を持っていますか。もちろん、私たちが暮らしている日本で、旅人が真夜中に家を訪れてきたりはしません。もし、いるとすれば、それは泥棒か、または本当に緊急な状況に追われている人でしょう。そして、もし真夜中に人が訪れたとしても、私たちは、その人のお腹を満たすパン一切れくらいはもっています。真夜中にパンを借りるためにどこかへ走らなくてもいい暮らしをしています。

しかし、物で満たされている今の私たちの暮らしの中で人々が必要としているのは、渇いた心を満たすもの。精神的な貧しさ、内面の渇きを満たすためのものなのです。イエスさまが、真夜中を想定して話しておられるのは、人の中にはそれだけ深い暗闇があることを表そうとしています。常識から外れた時間帯です。とんでもないときに、とんでもない所で、とんでもない人が求めてくる。その時、私たちには、その人の必要としているものを持っているだろうか。もっていないとするなら、それを提供してくれる隣人は共にいるのだろうか。問われています。

安倍晋三元首相が銃撃され亡くなった事件の犯人、山上徹也容疑者のことについて、社会学者の宮台真司さんの話が新聞にこのように載っていました。

「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)に入信した容疑者の母親が破産した2002年から凶行に至るまでの20年間は、多くの若者が就職氷河期の負の影響を受け、労働・雇用市場で非正規雇用が拡大し続けた時期に重なる。資格取得などに努めながらも職を転々とし、40代を越えた容疑者は、人一倍孤独や孤立を感じていたことだろう」と。

だから、「容疑者のような寄り辺なき個人を一人でも多く社会に包摂し、感情的な凶行を起こしたり、過激な主張の政治・宗教団体に扱い寄せられたりしないで済む暮らしを送るように、互いに声を掛け合う人間関係を身の回りで気づく実践を粘り強く続けないと、事件はまた起こりうる」と。

まさに、「私」から「私たち」と祈ることの必然性を訴えています。主の祈りを教えられたイエスさまの思いと同じだと思いました。「私たちに今日もこの日の糧をお与えください」。その人にも、あの人にも、みんなに必要な糧が与えられますようにと、毎日祈り、そして与える側に立って与えられていない人々に分かち合う実践をしなさい。それがキリスト者の務めであるという勧めであります。

山上徹也容疑者は、真夜中に私たちのところを訪れてきた旅人なのです。なぜなら、私たちには彼のような人をもてなすようなもの何一つ持っていないからです。もてなすどころか、排斥したくなる相手だからです。つまり彼は、私の心があなたのような人を排斥しようとする状態である、私の貧しさを気づかせてくれた人なのです。まさに、共に生きるようにされた人なのに、追い出され、無視され、無関心で孤独という部屋に閉じ込めてしまった、私たちの隣人なのです。

そして、その友とは、さほど遠くから探さなくても、自分の家族の中にもいるのかもしれません。親戚や友達、教会の仲間、職場の人の中にいて、感情的な関わり方で私に近寄り、私の中の平安を壊して苛立たせ揺さぶって来る人。そして、私からその孤独を癒すためのパンを得ようとして、私の心を叩く人。そのような人たちに対して私たちはどう応えるのでしょうか。新しい始まりを生きるか、それとも無視と無関心で突き通すか。主の祈りを祈る者への問いかけです。

ですから、安倍元総理銃撃事件に関しても、あんな事件が起きるなんて嫌ねえとか、ああもう世の終わりだとか、嫌な時代になったと言って他人事のように終わらさず、そのようにしか受け止められないこの私の貧しさに気づき、旅人をもてなすという実践を生きる、このようにしてキリストへの道は始まるのではないでしょうか。

イエスさまは、私たちのことを友と呼ぶとおっしゃって、私たちのことを最も近くにいさせてくださいました。さ迷い、キリストの道を外れてばかりいる、旅人のような私を受け入れて愛し、渇き果てた心を永遠のもので満たしてくださいました。「私」から「私たち」になりなさいとお命じになり、私たちひとり一人を祝福してくださいました。この祝福を分かち合いながら今週ご一緒に歩んでいきたいと思います。