必要なことはただ一つ

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ルカによる福音書10章38~42節

必要なことはただ一つ

アブラハムは、自分たちの住まいの近くを通りかかった旅人を家に迎え、もてなしました。足を洗う水を出し、上質の粉でパン菓子を焼いて、柔らかい子牛を屠って食事を準備し、親切に歓待しました。それは、暑い真昼の出来事でした。このもてなしを通して年老いた夫婦の生活に大きな変化がもたらされます。それは、90歳になった妻のサラから男の子が生まれるという、人の想像を遥かに超える約束が、その場で宣言されたのでした。

聖書は、このように、古い時代から旅人をもてなす習慣の大切さを記録しています。そして、新約聖書のヘブル人への手紙もこう記しています。「旅人をもてなすことを忘れてはなりません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」(13:2)と。

本日の福音のマルタの家。そこもよく旅人をもてなす家だったようです。イエスさまは、エルサレムに来られる際には、エルサレムに近いベタニアのマルタの家にお泊りになりました。

マルタは、きっとパワフルな人だったのではないかと想像します。

ヨハネによる福音書では、イエスさまと神学的な議論をするほど、優れた見解と信仰をもった女性として描かれています。マルタには妹のマリアと、弟のラザロがいました。ヨハネ福音書には、ラザロが病気で死に、お墓に葬られて四日も経ってからイエスさまによって甦らせられた、大いなる出来事が記されています。その出来事が起きる直前に、イエスさまとマルタのこのようなやり取りがあります。「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いすることは何でも、神はかなえてくださると、私は今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と言った。イエスは言われた。「私は復活であり、命である。私を信じるものは死んでも生きる。生きていて私を信じるものは誰も、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであると私は信じています」(ヨハネ11:21-27)と答えています。

男の弟子たちは、「あなたはメシアです」と告白をしても、マルタのようにイエスさまと深い神学的議論を交わすことはありませんでした。しかし、マルタはイエスさまとの間に、これだけの深い神学を展開します。最初マルタはイエスさまに「終わりの日の復活の時に復活することは存じています」と言い、復活とはこの世の終わりのときの出来事と信じていたことを示しました。それに対してイエスさまは「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる」と伝えます。このとき、マルタは悟ったのでした。復活とは、死後のことというより、今日この生きている現場に、イエスさまがおられるところで起きることなのだと。これほどの深い交わりの姿は聖書のどこにもありません。マルタは優れた弟子像を私たちに示しています。

そして、実際、マルタの家では死者の復活が起きます。死んでお墓に葬られて四日も経っていた弟のラザロが甦ったのでした。

さらにマルタの優れたところは、旅人をもてなすという、イスラエルの古い伝統をちゃんと受け継いで、実践しているということです。

このマルタの姿を知らずに、本日のルカ福音書のマルタを、うわべだけで理解するとき、偏った受け止め方になってしまいます。

本日の福音書でマルタは、イエスさまご一行をもてなすために、イエスさまがお話をなさっておられる間も、台所で忙しく動いています。そしてとうとう疲れてきたのでしょうか。それとも、一人でやっていたら食事の時間に間に合わないと思ったのでしょうか。それとも、忙しい時に、イエスさまの足元にじっと座っているマリアのことが気になったのでしょうか。マルタは、お話途中のイエスさまに不平をぶつけてしまいます。

従来の捉え方は、この姿のマルタだけを捉えて、マルタは勉強が嫌いで台所で働くのが好きな女性、マリアはアカデミックな女性で、イエスさまの足元で良く学ぶ人という解釈が長い間なされてきました。教会では、私はマルタタイプ、あの人はマリアタイプと分けて、マルタとマリアの間に壁を築くような捕え方をしてきました。しかし、聖書はもっと全体的に幅をもたせて読むことが必要かと思います。

それでは、今日の箇所をもう少し吟味してみましょう。

今日、マルタは、誠心誠意を込めてイエスさまご一行をもてなそうとして気合を入れている様子です。しかし、大事な場で、大切な人であると思うだけに、つい力を入れて準備をしてしまいます。

マルタにとってイエスさまご一行は、エルサレムに来られる際にはいつも、自分たちを信頼して訪ねてきてくださる旅人でした。だから、あれもこれもと、心を込めてもてなしたいと思って忙しくしているのに、妹のマリアが他人事のように関心を示しません。マルタはついイエスさまにぶつけてしまいました。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40節)と。そのマルタにイエスさまはこのように答えられます。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。しかし必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(41節)と。

必要なことはただ一つである」。 「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。

これは、他の言葉で表すなら、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」と言えるのではないかと思います。つまり、自分の十字架をもちゃんと背負っていないのに、他人の背負い方に口を出してはならないということ。それが妹であっても、どんなに親しい関係であっても、相手の生き方を操作することは、やってはならないということ。大切なことは、あなた自身が選んだ道で、その道の先頭に立っておられる神さまとの交わりを大切にすること、それだけであるという勧告なのです。なぜなら、神さまとの交わりで生きる信仰の道とは、自分の内面を見つめ、知らされた自分自身と向かい合うという作業の道だからです。

ですから、イエスさまのマルタへの勧告は、マリアは良い方を選んで、マルタは良くない方を選んだという意味ではありません。マリアは自分にとって良いと思うことを選び、マルタもそうであるのだから、互いが選び取るという自由意志、それを尊重し、大切にしなければならないということです。

私たちは、親しい関係であればあるほど、相手の生き方に干渉をしたくなります。夫婦の間、親子関係の中、今日のマルタとマリアのように兄弟姉妹関係の中で、自分の思うように操作しようという傾向が強いのではないかと思います。

会社の上司と部下の間にはもっと強く見られます。国ではそれをパワーハラスメントと言って、今年の4月一日より、「パワーハラスメント防止措置」が厚生労働省より出され、中小企業の事業主に義務化されました。

教会の中はどうでしょうか。 私たち自身はいかがでしょうか。

必要なことはただ一つだけである」。

つまり、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」とイエスさまが勧めておられる。それは、実は、私たちに向けられた神さまの愛を示すものです。つまり、あなた自身が背負うべき十字架だけでも重いのに、人のものまで背負わなくてもいい。さらには、背負えるようなものでもない。なのに、それのために思い煩って、本来の大切なことを忘れてしまうようになってはならないと、イエスさまは私たちに告げておられるのです。「必要なことはただ一つである」。励ましのお言葉です。

イエスさまと対論するほどの深い神学的見解をもち、先祖から受け継がれた旅人をもてなすという、大切な働きを実践して生きる人の中にも、弱さがあります。傷があるからです。一人では担いきれないくらいの闇をもっているのです。それらを、イエスさまを信じてその前に差し出すときに、イエスさまは共に担ってくださいます。私たちが思い煩うことで自分を失うことを悲しまれるイエスさまは、一緒に私たちの弱さを担ってくださるのです。

マルタはイエスさまを尊敬し、信じる人でした。それで自分の内側の乱れを素直にイエスさまに現しました。そのとき、イエスさまは一緒に担ってくださいました。「必要なことはただ一つである」、あなたはあなたのことだけをしなさいと。

イエスさまがマルタのことをどれだけ愛しておられるのかがわかります。同時に、私たちのことを、大切にしてくださっています。「マルタ、マルタ」と名前を呼んでくださったように、私たちの名前を呼んで、イエスさまは私たちのところを訪れてくださいます。そのイエスさまをもてなすのですから、私たちは忙しくなるかもしれません。しかし、「必要なことはただ一つ」。あれやこれやと用意できず、シンプルで貧しい食卓であっても、喜びが溢れるもてなしであれば、そこが神の国です。