道を横切る

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ルカによる福音書10章25~37節

道を横切る

先週は、日本全国がギョッとするような事件が起きました。安倍元総理を狙った蛮行、そういう蛮行が日本で起きていることに対して、世界中が驚いた一週間でした。

人の中にひそかに宿る暗闇の姿、それに外からは気づかないものです。裏切られた強い思いと、悔しい現実の中で、どうしても赦せないものに対する復讐心が、武器を利用した暴力的行為を通して現わしたのです。またそれが宗教との絡みのなかでの出来事と思うと、今自分が立たされている基盤を確かめずにはいられませんでした。私は、何を力にしているのか、何が私を支えているのか、私たちは何によって喜びを得ようとしているのか。その私たちの中にも、何らかの形の傷があり、恨みがあり、怒りがあります。それらを、どうやって解消し、さらには平和に昇華させていくのか。それは、自分の信仰の歩みの中で謙虚に取り組んでいかなければならない大切なことと思います。どんなに親しい人でも代わりにはできません。

さて、今日の福音書の中にも、暴力に振るわれて瀕死状態で道に横たわっている人がいます。  エルサレムからエリコへ下ってゆく途中、追い剥ぎに襲われ、服が剥ぎ取られ、殴りつけられて、今瀕死状態です。そこを、祭司が通り、レビ人が通ります。しかし、祭司も、レビ人も、倒れている人を見ると、その反対側の道を通って行ってしまいます。きっと、大事な仕事があって、関わっていたら遅れてしまうかもしれないし、血を流していれば触れると汚れの律法を犯すことになる、いろんな思いがあって、仕事のために用心して避けたのかもしれません。

次に、旅をしていたサマリア人が同じ道を通り、倒れている人を見つけます。彼は、気の毒に思い、急いで近寄っては傷にぶどう酒を注ぎ、オリーブ油を塗って応急処置をし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行って介護をします。そして翌日、宿屋の主人に銀貨二枚を渡して介護をお願いし、もっと費用がかかったら帰りに払いますと言って出かけます。

これはイエスさまが話された、有名な良きサマリア人の話です。それは、ある律法の専門家から、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねられたことに対するイエスさまのお答えとして語られたお話です。お話の最後に、イエスさまは律法の専門家にこう聞きます。「この三人の中で、誰が追い剥ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と。すると、律法の専門家は、「その人に憐れみをかけた人です」と答えます。その返事を聞いて、イエスさまは、「行って、あなたも同じようにしなさい」と言って彼を隣人のもとへ送り出しておられます。

この律法の専門家は、イエスさまのサマリア人の話を理解したようですが、最後のイエスさまのお勧めを行って生きるようになったのでしょうか。

彼は、律法の中でも、もっとも大切な、「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また隣人を自分のように愛しなさい」が、律法の中でもとても大切であることを知っていて、守っていました。しかしそれを実行する力はもっていませんでした。イエスさまから、知っていることを実行しなさいと言われて、彼は自分を正当化しようとしてイエスさまに聞きます。「私の隣人とは誰ですか」と。

隣人を自分のように愛しなさい」という律法を守りながら、愛する隣人の姿が具体的に分からない。その彼に対して、イエスさまは、祭司やレビ人の姿をこの律法の専門家に重ねながら、サマリア人を通して、具体的に隣人へのかかわりを見せておられます。

そして、この律法の専門家の姿は私の姿にも重なってきます。それは、私の中にもちゃんとやっている、守っているという、自分を正当化する理由があることが分かるからです。

しかし、自分を正当化している限り、自分の魂の渇きを癒すことはできません。律法の専門かもそのことに気づいていたのでしょう。だからイエスさまを試すような形で、「何をしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と聞いたのだと思います。

しかし、試すつもりだったのに、彼は、どんどんイエスさまが話される物語の中に招き入れられ、イエスさまのもてなしをいただいて、徐々に癒されるようになります。最後にイエスさまから、「この三人の中で、誰が追い剥ぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と聞かれて、彼は、「憐れみをかけた人です」という表現を使って答えているのです。

憐れみをかける心」は、とても温かい眼差しです。律法をしっかり守っている専門家であっても、救いの確信がなくさ迷っている人には、救いへの強い確信を抱かせるほどの力をもっています。イエスさまは、憐れみをかける心をもってあなたも同じようにしなさいと言って、彼を隣人のもとへと送り出してくださったのでした。

私たちも同じように送りだれています。憐れみをかける心をもって仕える人になる期待を込めて、イエスさまから背中押されて、隣人のもとへ遣わされているのです。しかし、いかがでしょうか。自分の目の前にいて、私の思うような姿ではない隣人、私の言うことも聞かなければ、むしろ自分勝手な行動をする人、考え方も合わない人に対して、憐れみの心をもって近寄って、オリーブ油を塗ってその人の心の傷を癒すような関わりができるでしょうか。

そもそも、律法の専門家に示された隣人とは、どうして追い剥ぎに遭って、服も剥ぎ取られて瀕死状態になっている人のことなのだろうと思います。律法の専門家の周りにも、私たちの周りにも、普通に仲良く過ごしている隣人が大勢います。なのに、どうして極端な例えをイエスさまは話されるのでしょうか。愛するというハードルの高さを感じずに入られません。

聖書通読をされておられる方は、先週から旧約聖書はヨシュア記に入ったのだと思います。先週の木曜日あたりに、イスラエルの民がヨルダン川を渡る記事を読まれたのだと思いますが、そのとき、秋の借り入れのときで岸にまで達していた川の水が、神の契約の箱を担いだ祭司たちが水の中に足を踏み入れたとたん、水の流れた止まり、川の底が見え、人が通れる道ができました。奇跡が起きたのです。

そのことは私たちに多くのことを示唆していると思います。どんなにハードルが高いと思われることでも、あなたがたった一歩でも足を踏み入れてやろうとするとき、力は与えられるということ。信仰の道を歩むということはそうだと思うのです。私が歩む私の道は私が基盤を作るものであって、神さまが作るものではありません。私の意志が働くときに、そこに神さまの働きも臨むのです。

しかし逆に、まさかそんなことできるわけがないと決め付けて、やってもみないうちに諦めてしまえば、高いハードルはそのまま残り、そのハードルがプレッシャになり、信仰の歩みが不安定になって、自分を正当化するような歩み方をしてしまうということ。

今日、追い剥ぎに遭って道端に瀕死状態で倒れている人。この人は、実は、自分を正当化してイエスさまの前で、イエスさまを試そうとしている、私です。足があっても隣人のために歩けず、健康な体は自分の欲望を満たすためにだけ使っている、自分自身の信仰さえも自分ひとりではどうすることもできず、サマリア人のような隣人が近寄ってきてくれなければ、新しい始まりの歩みができず、人生の道に横たわっている私なのです。

その私を救うために、イエスさまがサマリア人の姿をして、道を横切って来てくださいました。汚れの律法の高い壁を乗り越えて、愛の力で闇の力を打ち破りながら、すべてより私を優先して、深く憐れむ姿で近寄ってくださいました。自分勝手で、わがままで、人生のど真ん中で横たわって動こうとしない私に、イエスさまは神の国の癒しの道具を出して、最高のケアをしてくださっています。

さあ、元気になったら、今度は私と一緒に出かけよう、私があなたと一緒だから躊躇することはない。私が一緒であればあなたに乗り越えられない試練はない。だから、あなたを求めている隣人のところへ一緒に出かけようと、あなたが受けた深い憐れみの心をもって出かけようと、私たちを送り出してくださっています。

イエスさまを基盤として歩かされている信仰の証を、隣人のもとで大胆に伝えて行きましょう。