歩き出した

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歩き出した

 ヨハネ福音書5章1-9節

信徒説教:竹内章浩

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストから恵みと平安とが、あなたがたにあるように。アーメン。

今日の聖書の舞台はベトザタの池です。少し舌をかみそうな名前ですね。英語では「Pool of Bethesda」と呼びます。池とありますが、野池ではなく、プールを思い浮かべてください。大きさは、全体の長さ約120m、幅50~60m、深さ10~15m、という巨大な池だったそうです。25mプールがほぼ5個分の長さと考えると大きな池と思います。紀元前8世紀に雨水を貯めるために作られ、紀元前2世紀頃の記録では神殿に捧げる羊などの犠牲の動物を清めるための大量の水を貯めていたとのことです。

この池を囲むように屋根のついた廊下、回廊があります。このヨハネ福音書のおわりに、この聖書箇所の「底本に節が欠けている箇所の異本による訳文」があります。お読みします。「 彼らは、水が動くのを待っていた。ある時間になると、主の天使が池に降りて来て水を動かしたので、水が動いたとき、真っ先に入る者は、どんな病気にかかっていても、良くなったからである。」とあります。

聖書には「その回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。」とあり、この言い伝えを信じて、水が動くのを待っていました。

 イエスさまは、この場所に来られ、多くの病気の人の中から一人の人に声をかけます。

その人は38年も病気で苦しんでいる人でした。イエスさまは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われます。

病気の人は答えます。「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。私が行く間に、ほかの人が先に降りてしまうのです。」

イエスさまは言われます。「起きて、床を(とこ)担いで歩きなさい。」と。すると、その人はすぐに良くなって、床(とこ)を担いで歩きだします。

イエスさまは「良くなりたいか」と仰います。ギリシャ語をそのまま読むと「健康になることを欲するか」となります。もう少し分かりやすく言うと「病気が癒されることをあなたは願うか」とイエスさまは病気の人に仰います。

病気の人は「主よ、私にはいないのです。水がかき動かされるときに池に入れてくれる人が。そして「だから、私が、私が、行くうちに、他の者が私の先に池に入っているのです」と言います。

イエスさまは言います。「起きて、床(とこ)を担いで歩きなさい。」これもギリシャ語をそのまま読むと「起きよ。あなたは、持ち上げよ、あなたの床(とこ)を。そして、あなたは歩け。」となります。その人はすぐに良くなって、床(とこ)を担いで歩きだします。

多くの牧師がこの箇所で語るのは、イエスさまは「良くなりたいか」と聞いたのに対して、病気の人は「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。」と答えることです。「良くなりたいか」に対する答えは「はい」または「いいえ」であるからです。

私は、この人の「主よ、水が動くとき、私を池の中に入れてくれる人がいません。」の答えに、この人の苦しみを見ます。マルコ5章に出てくる「十二年間も出血の止まらない女」も「多くの医者からひどい目に遭わされ、全財産を使い果たしたが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」とあります。2000年前は病気に対して正しく治療する術(すべ)もありません。病気は穢れであり、家族から離れて暮らすことになります。また病気はその人、または親族が罪を犯したことに対する罰が与えられたと考えられていました。

この人は38年間、希望なく、孤独であったことと思います。「良くなりたいか」と聞かれても、希望を持てない。病気の人は「私を池の中に入れてくれる人がいません。」と言いますが、「私には希望がありません」と言っても良いと思います。

しかし、この希望の無い病人にイエスさまは「起きよ、床(とこ)を担いで歩け」と仰います。

 

さて、この現代社会に今日の福音箇所はわたしたちに、どのように働きかけるのでしょうか。

イエスさまは、今日、私に語りかけます。「良くなりたいか」と。そう、私に対してイエスさまは「あなたは病人だ」と言うのです。

私は病気にかかっていませんし、大きな希望があるかと言われると、それは悩みますが、日々、できるかぎりのことはしようと思います。そういう意味では希望を持っているといえるでしょう。

しかしイエスさまは「あなたは病人だ」と言うのです。イエスさまは私に「今、あなたは家に帰ったら一人ではないか。あなたは誰とも住んでいない。それは、あなたの心はあなただけが住んでいて、誰の心も住まわせていないからだ。」と仰います。

イエスさまは私に言います「あなたは確かに親切だ。人に対しても優しい。しかし、親切で、便利の良い人であるだけで、誰の心も受け入れていない。あなたは確かに大切な人のために祈ってきた。家族のために祈ってきた。兄弟姉妹のために祈ってきた。しかし、痛みを覚えるほどに祈ってきたか。自分が受け入れたいものだけを受け入れること。自分の気に入ることをすること。それは無関心であるのだ。あなたの祈りはそれではいけない。」と仰います。

わたしは振り返ります。確かにイエスさまの言葉のとおりだと、思います。私は人を愛し、大切な人や家族、仲間、兄弟姉妹のために祈ってきました。しかし、心の中では自分の喜びのために、祈っていました。神様に敬虔に祈ってきたかと言うと出エジプト記のさまよう民のように、自分の願いばかりを祈りとして捧げてきたと思います。もし、私がお祈りしているときに、心の中の声が人に聞こえたなら、その人は私を馬鹿だと思うのではないかと思います。イエスさまは今日、そんな私に「起きて、床(とこ)を担いで歩きなさい。」と言います。

 

さて、38年間、病気の人が起き上がり、床(とこ)を担いで歩き出しました。何故、病気が癒やされ、歩き出したのでしょうか。

少し、私の幼稚園の時のお話をしたいと思います。年中さんだったと思います。私は兵庫県伊丹市のロザリオ幼稚園にという幼稚園に通っていました。梅雨どきのある日、幼稚園にいると強い雨が降りました。園は休園となって、友達はみんなお迎えが来て帰って行きます。しかし、私にはお迎えが来ませんでした。そのころ、父が家を出て、母は働いていたからです。母が仕事をしていたこと、そして仕事が大変なのは、子ども心に良くわかっていました。しかし、待てども、お迎えは来ません。幼稚園の先生が何度も電話をしているのも分かりました。私は不安と寂しさのあまりに、泣き出し、お漏らしまでしてしまいました。幼稚園の先生が優しく、着替えさせてくださって、温かい飲み物をくださったことを覚えています。

そして夕方になって、近所の歳老いたおじさん、その苗字は土井さんと言い、私は土井のおじちゃんとその当時読んでいましたが、その方は父親のいない私の家庭をいろいろと気遣い助けてくださいました。その土井のおじちゃんが迎えに来てくださいました。幼稚園の入り口から園庭を歩いてくる。私は40年以上前ですが、その姿を今でも覚えています。

「良かったー」と思いました。そのうれしさは運動会で賞をとったときのような喜びではなくて、心の奥底から温かいものが込み上げてくる、そういう嬉しさでした。そして帰りには土井のおじちゃんの傘に入れていただいて、手を繋いで帰ったこと、その手が温かったことを覚えています。そしてこの光景は私の人生の苦しみにあった際に度々思い出され、力づけてくれています。そして私自身、心のどこかで、土井のおじちゃんのようにありたいと願い、そう思っています。

さて、聖書に戻ります。聖書には書かれておりませんが、わたしは「起きよ」の前にイエスさまが言われた言葉があると思います。言葉として話さなくても、そのお顔の表情で、身振りでお示しなったと思います。その言葉は「わたしはあなたを赦します。」それは心から愛しているといことでもあるでしょう。イエスさまに赦され愛される。病気で38年間、苦しみ、悩み、孤独、そう絶望のどん底であったこの人に「もう一人でないのだ、私のことをわかってくださる方、この苦しみを分かってくれる方がいる。ありのままで受け入れてくださる方がいる。力づけてくださる方がいる」と、心の底から温かい気持ちが湧き上がったと思います。

そしてイエスさまは私たちにも言います。「あるとき、あなたは孤独のどん底であなたは孤独のあまり、一人が良いとあなたの心から私を追い出した。あるときは苦しみや悩みであなたの心がいっぱいで、あなたの心から私を追い出した。あるときは本当に大切なことがあるのに、あなたは気が付かずに無関心であなたの心から私を追い出した。」と仰います。そのようなわたししたちに、イエスさまは「あなたを赦している。どうか畏れないでほしい、忘れないでほしいと。そして私をあなたの心に受け入れてほしいと。そう、わたしはあなたが大切なのだ。あなたとともにいたい。」と仰います。そして「あなたのためなら何度傷ついても立ち上がる」と仰います。

だから、あなたは癒やされたら、元気になったのなら、私のことに気がついたのなら、

立ち上がり、歩いてほしい。そして「あなたの大切な人を、力づけてほしい」と仰います。

大切な人を力づける、それは大きなことすることではありません。小さなことです。しかし心を込めることです。そう「あなたは言葉を大切に話してほしいと、一言、一言に真実を持って、人の言葉を大切に聴いてほしいと。あなたに話す人のその心を大切にしてほしい。」そして「行いを大切にしてほしい。「ただ何かをこなすだけ」でなく、その行いのひとつひとつに心を込めてほしい」と仰います。けれども人の話を誠に聴くこと、行いに心を込めること、あるとき、真実で、誠実であればあるほど、それは私の心を傷つけることかもしれません。しかし、その傷を共に痛み、苦しむイエスさまがおられます。

聖書は言います「あなたの神、主は生きておられる」と。しかし、現代に聖書に起こった奇跡がそのまま、起こることはないかもしれません。けれども、イエスさまはいつも共におられます。わたしたちはイエスさまの心を時には忘れる、また追い出してしまうときがあるかもしれません。そんなわたしたちですが、イエスさまの心、そしてその言葉を受け入れ、歩むときに、確かに神はおられ、平和の主としてわたしたちを導かれます。

どうか、今週、その御声に立ち上がり、主イエスとともにその一歩を歩き出しましょう。

最後にお祈りに代えて旧約聖書の哀歌3章22-41節 をお読みしたいと思います。

聖書は1272頁です。

主の慈しみは絶えることがない。その憐れみは尽きることがない。
それは朝ごとに新しい。あなたの真実は尽きることがない。
「主こそ私の受ける分」と私の魂は言いそれゆえ、私は主を待ち望む。
主は、ご自分に希望を置く者に ご自分を探し求める魂に恵み深い。
主の救いを黙して待ち望む者に恵み深く 若い時に軛を負う者に恵み深い。
主に軛を負わされたなら 黙って独り座るがよい。
塵に口をつけよ。そうすれば希望があるかもしれない。
自分を打つ者に頰を差し出し そしりを十分に受けよ。
主はとこしえに拒まれることはない。
たとえ苦しみを与えても 豊かな慈しみによって憐れんでくださる。
人の子らを辱め、苦しめるのは 御心ではないのだから。
地のすべての捕らわれ人を その足の下に踏みにじり
いと高き方の御顔の前で 人の権利を奪うのを
その訴えを不当に扱うのを主は見ておられないとでも言うのか。
主が命じられたのでなければ 誰がこれを語り、このようなことが起きたのか。
災いも幸いもいと高き方の口から出るものではないか。
生きている人間がどうして不平を言えるのか。自分が罪を犯したのだから。
私たちは自らの道を探し、調べて主のもとへ帰ろう。
天におられる神に向かって 両手と共に心を上げよう。

人知ではとうてい計り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスによって守るように。アーメン。

ユーチューブはこちらから ⇒ https://youtu.be/nnDn9AERRM8