声を聞き分ける術

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ヨハネによる福音書10章22~30節

声を聞き分ける術

今日は母の日。私たちは祈ります。世界が母の愛に満たされますように。特に争いがあるところに、すべてを包んでゆるす、母の愛の働きがありますように。そして、世界の母親たちの上に神さまの祝福が豊かにありますように。特に戦時下で子を失った深い悲しみの中にいる母親の上に、母を失って悲しむ子どもの上に、神さまからの大きな慰めがありますように。

ユダヤ教では、「母親は神の姿をわかりやすく現わす者」と言われます。命を宿し、生み出すものであるからです。そのように、教会は母親です。産みの苦しみを共に経験します。生まれたものを育てる喜びと苦悩を引き受けます。それらを通して信頼を深めます。さらには、育てたものを世界へ送り出すという、尊い働きを担っています。

さて、今日の福音書の初めには、こう記されています。「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。『いつまで、私たちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい』」(22~24節)。

「いつまで、私たちに気をもませるのか」というときの「気をもませる」という日本語の表現がとても面白いと思いました。韓国語の聖書では「私たちの心を誘惑する」と訳されています。原語のギリシャ語は、「魂」または「霊」を現す言葉を用いています。それらが居ても立ってもいられない状況を表しています。

つまりユダヤ人たちは、イエスさまのことで、最も深い所の魂(気、心)が揺さぶられるような思いの中にいる、ということです。

それは、神殿奉献記念祭が行われているときでした。神殿奉献記念祭とは、ヘブライ語で「ハヌカ」と呼ばれていて、聖別、または奉献を意味します。紀元前175~164年に在位したアンティオコス四世のエピファネスは、ユダヤ人の文化と宗教を徹底的にヘレニズム世界に組み込もうとしました。それで、ユダヤ教の礼拝と割礼など、モーセの律法をことごとく禁止しました。それに抵抗する人は死刑で処罰し、エルサレム神殿にはゼウス・オリンピオスの祭壇を設けます。これに対して、ユダヤ教の中の敬虔な人たちが、マカバイ家のユダに率いられて反乱を起こします。苦戦の末、勝利をおさめます。これがマカバイ戦争と呼ばれるものです。

勝利をおさめた紀元前164年、ユダヤ人は神殿から異教の神々を除き、神殿を清めました(1マカバイ記4:36~59)。それ以後ユダヤ教では、これを記念する「ハヌカ」の祭りが毎年祝われるようになります。この祭りは同時に、ソロモンの神殿と第二神殿の奉献を回顧(かいこ)する祭りとして、仮庵祭にならって八日間、灯火をつけて祝われました(2マカバイ記:18以下)。これが神殿奉献記念祭、ハヌカの起源です。

その祭りの最中、ソロモンの回路でイエスさまがユダヤ人たちに取り囲まれました。そして、「いつまでわたしたちに気をもませるのか。もしメシアならはっきり言いなさい」と責められています。

その質問に対して、イエスさまははっきりと答えられます。「私は言ったが、あなたがたは信じない。私が父の名によって行う業が、私について証しをしている。しかし、あなたがたは信じない。私の羊ではないからである。私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う。私は彼らに永遠の命を与える」と。

イエスさまは、「私の羊はわたしの声を聞き分ける」とおっしゃいます。

復活の朝、お墓に着いたマグダラのマリアは、イエスさまのご遺体がなくなったことを知り、とても悲しく泣いていました。復活の主が彼女の後ろから彼女の名前を呼びます。「マリア」と。名前を呼ばれるまでは、その方を見ても園丁と思っていました。しかし、「マリア」と呼ばれて、マリアは、その声が以前から自分を呼んでくれていたイエスさまのお声だとわかりました。そしてこのとき、彼女は、イエスさまが復活されたことを知り、信じたのです。

マリアがイエスさまの声を聞き分けることができたのは、いつものお声で呼ばれたからです。聞いたことのない人の声を聞き分けることはできません。

先週、私はルターハウスに行って少し長く滞在して帰ってきました。鵠沼に帰って来て、駐車場に車を止めようとしたら、満開になっているつつじに気づきました。つつじが顔を全開して、「お帰り!」と言っている声が聞こえました。なんと嬉しかったことでしょう。そして家に入って荷物を整理していたら、屋根の上を通り越す風が「お帰り!」と。その声が懐かしく、ホッとしました。まるでそれは、母親の声のように温かく、帰ってきた私をそのまま迎えてくれました。

そしてそれらの声が、根源的なところにまで私を導くのです。私を、心を込めて創造され、ご自分の魂を吹き込んでくださった神、私の恥ずかしい所をゆるし、覆い、新しい世界へ送り出してくださった方、働く者として招き、その実りを人々と分かち合うようにと祝福してくださった方、その神さまの懐かしいお声が私の中に響きます。

復活の朝、マグダラのマリアは、もう死んでしまわれたと思っていた主から、懐かしい声で呼ばれて、復活の主に出会いました。それと同じように、私たちも、神さまが造られたすべての被造物の声を通して、私たちの羊飼いの主の声を聞き分ける者として招かれているのです。

今日の第一日課として読まれた使徒言行録9章では、タビタという女性のことが記されていました。彼女は死んだのに、ペトロの呼びかけによって生き返りました。彼女は周りの貧しい人々に多くのものを分かち合い、善い行いをしていた弟子でした。彼女は病気になって死にましたが、ペトロから名前が呼ばれ、起きなさいという声を聞いて、直ちに目を開きました。

イエスさまが昇天した後の弟子たちの時代にも、死者が生き返るという癒しの奇跡が起きていたことをこの記事は伝えています。このことは、私たちに何を語ろうとしているのでしょうか。

私たちの時代にも、死んだ者が生き返る、癒しの奇跡が起きるということを示す物語ではないでしょうか。私はそう思います。

私たちは、死んだ状態で、うずくまっている場合が多くあります。「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」と煩いの中にいるときです。イエスさまは、それらはみな、「世の異邦人が切に求めているものだ」とおっしゃって、あなたがたは、「まず、神の国と神の義を求めなさい」と勧められました。そうすれば、「これらのものは加えて与えられる」と(ルカ12:29~32)と。

何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」ということで思い煩う世界。それは、死者の世界です。霊的に死んでいる世界です。自分のために食べ物や飲み物や着る物を求め、備蓄するような生き方です。しかし私たちは、神の国と神の義を求める生き方に招かれています。それは、どんなときも人をもてなし、分かち合い、交わり、信頼を育み、送り出すという世界です。

しかし、神殿の中で、しかも、奪われていた神殿が敬虔な先祖たちによって取り戻されたことを祝うその場で、イエスのことで気をもむ人々の群れがあります。イエスのそばにいるのに、心をはそこから遠く離れて、不安にさいなまされている人々です。それは、「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようか」という、人間の欲望を満たそうとする人の姿のように見えます。死んでいる人々の姿です。私たちの教会はどういう姿をしているのでしょうか。

一所懸命に善いことを行い、人々から尊敬されていたとしても、タビタのように、試みに会うことがあります。私も、どうして自分だけがこんなに働かなければならないのかという不満や怒りを何度も体験しています。生身の人間だからです。神への奉仕も、体や心が疲れてくれば、小さなことに傷つきますし、そんなときには逃げたくなります。神を否定し、死者の復活も信じたくない時が訪れるのです。もう、何もかも諦めたいと願い、死者のように横たわるときが私たちにはあるのです。

そのとき、タビタの周りの人たちは、タビタに寄り添い、深い思いを寄せています。タビタの死を心から悲しみ、近くの村にいるペトロを呼び、自分たちがタビタを通して受けた恵みの数々をペトロに証しています。そして、死んだ人が生き返るという出来事を、人々は目撃しました。この人々がペトロを呼んだのは、死者の復活を信じる信仰の上に立っていたからです。ここに教会の姿があります。「ああ、一所懸命にやっていたけど、無理をしたから死んでしまったのね」で終わらないのです。教会は、絶望のときに諦めず、そのときにこそ希望への扉の存在を信じる群れだからです。

イエスさまははっきり宣言してくださいました。「私の羊は私の声を聞き分ける。私は彼らを知っており、彼らは私に従う」と。私たちは、イエスさまに知られて、イエスさまに信頼されている群れであり、その中の一人一人です。その信頼のゆえに、母親が新しく生まれた子どもを包むように、私たちは互いを包み合い、世界を包みます。母親が生まれた子が新しい世界へ出ていくまで忍耐強く愛をこめて育てるように、私たちは人々を忍耐強く愛します。そのように、イエスさまの愛の中で交わりが深まるとき、真ん中に折られるイエスさまの声を聞くようになります。死者の復活が起きるのです。疲れ果てている人々が新しい命に生まれ変わるという、大いなる奇跡が起きるのです。私たち自身が死の床に横たわっていても、イエスさまのお声だけは聞き分けることができます。死者の復活です。