人の愛に渇く神

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ヨハネによる福音書21章1~19節

人の愛に渇く神

今年、私たちは、「心を一つにし 思いを一つにする」(1コリント1:10)を宣教指針として真ん中に据え、歩き出しました。教会の宣教においてはもちろんのことですが、私たちひとり一人の信仰の歩みの中に、この言葉はどのような影響を与えていますか。毎日の朝の祈りでは、今日出会う人と心を一つにし、思いを一つにすることができますようにと祈り、夕の祈りのときには、今日出会った人と、私はどれだけ心を一つにし、思いを一つにできたのだろうと振り返るのです。そうすることでこの指針が信仰の糧として具体的に自分自身を育ててくれるものになります。

「心を一つにし 思いを一つにする」ということは、相手に共感をすることだと思います。自分の前で話をしている人の言葉の意味がわからなくても、私を腹立たせるようなことばかり述べているとしても、そのときに、その人がそうとしか話せないその心の状況に思いをはせる、それが共感です。

さて、主の十字架に躓いた弟子たちは、復活されたイエスに会い喜びましたが、それ以上の希望は見出せなかったのでしょうか、ただちに以前の漁師の仕事に戻る決心をします。それで、ペトロが、「私は漁に出る」というと、他の弟子たちも、「私たちも一緒に行こう」といって、彼らはガリラヤ湖へ戻っていきました。それは、シモン・ペトロ、ディディもと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち(ヨハネとヤコブ)、その他に名前のない二人の弟子がいます。ペトロの兄弟のアンデレは一緒にいません。トマスやナタナエルは、漁師ではなかったと思いますが、ペトロたちについて漁にいきます。生計を営むために、二度と戻らないと思っていた漁の仕事に戻りました。

しかし、一度離れた湖は、帰ってきた漁師たちを歓迎していないかのように、彼らの期待に応えてくれません。夜通し漁をしても、魚一匹すら取れませんでした。虚しい思いで湖の上で朝を迎える弟子たちのところへ、復活の主が声をかけて来られます。「子たちよ、何かおかずになる物は捕れたか」。彼らは、「捕れません」と答えますが、話しかけている人が誰なのか、まだわかりません。すると、イエスは、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすれば捕れるはずだ」と漁師たちに勧めます。言われるまましてみると、網を引き上げることができないほど、たくさんの魚が捕れました。そのとき、以前イエスが愛しておられた弟子が言います。「主だ」と。するとペトロは、上着をまとって湖に飛び込みました。

陸に上がってみると、そこには炭火がおこしてあって、炭火の上には魚が焼いてあって、パンもありました。復活の主が食卓を用意しておられました。イエスさまは、弟子たちをご自分の食卓に招き、パンを取って与え、魚も同じようにして与えられました。みんなが主の食卓にあずかっています。しかし、誰も口を開きません。その方が誰なのか知っているからです。深い沈黙がその場を包みます。神秘を体験している時間です。見えなかった目が開かれ、見るべきものが見えたとき、人は沈黙するのです。ただ嬉しくて喜ぶという境地を越えるものに包まれるときです。

そこで、イエスさまが先に口を開かれました。
ヨハネの子シモン、あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」。
するとペトロが、「はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えます。そのペトロにイエスさまは、「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。
そしてもう一度ペトロに尋ねます。
ヨハネに子シモン、私を愛しているか」と。
きっとドキッとしたであろうペトロが、先と同じように答えます。
はい、主よ、私があなたを愛していることは、あなたがご存知です」と。
今度は「私の羊の世話をしなさい」とイエスさまから言い渡されました。
しかしイエスさまは、もう一度ペトロに尋ねます。
ヨハネの子シモン、私を愛しているか」。
悲しみが心の中に広がってくるのを我慢してペトロは答えます。
主よ、あなたは何もかもご存知です。私があなたを愛していることを、あなたは良く知っておられます」と。イエスさまはペトロにこのように言われました。
私の羊を飼いなさい。よくよく言っておく。あなたは、若い時は、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、歳をとると、両手を広げ、他の人に帯を閉められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と。
それは、「ペトロがどのような死に方で神の栄光を現すことになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」と聖書は続けて記しています。

ペトロは、逆さまになって十字架につけられたと伝えられています。自分にはイエスのように真っ直ぐに十字架につけられるような資格はないと、逆さまで十字架につけられたそうです。

このイエスさまとペトロのやり取りを聞いていると、私はとても切なくなります。イエスさまは、どうしてこれほどまでにペトロをつかんでいらっしゃるのだろう。あれだけ自分を否定し裏切った人間から離れず、彼をしっかり捉え、ご自分の羊の群れの世話を委ねるほど、いったい何の魅力をペトロに感じていらっしゃるのだろう。このペトロとは、いったい誰のことを指しているのだろうと考えます。私のことかも、皆さん一人一人のことかもしれません。何度も知らないと拒絶されても、諦めず、主は、再び手を差し伸べ、復活の命の神秘の中に招き入れてくださり、沈黙の中の交わりを通して、人間の深いところからの告白を聞かれる神の愛の眼差し。私たちひとり一人から、それだけの価値を見出してくださる神さまの心は、果たしてどれだけ広いのでしょう。

先週も言語についてお話をしましたが、人が話す言葉は一つの手段であると思います。日本語、韓国語、英語、フランス語、ヘブライ語、スペイン語、ギリシャ語・・・これらは、人間同士には通じますが、その他の被造物たちとは通じないもので、このような言語には限界があります。そして、神さまと私たちが通じ合う言葉は、言語を超えているところにあると思います。

しかし、あえて、今日、復活の主は、人間の言語を通して人から深い告白を聞き、使命を与えておられます。「あなたはこの人たち以上に私を愛しているか」と。

ルターは、神の国は、この世のものと協力しながらもたらされるものであると言います。たとえば、今、私は説教をしていますが、人の言葉をもって神の言葉を解き明かししています。この世の言語を通して神の言葉を現すという協力関係です。または、神の言葉は私たちの理性を通して理解され、人間の体に宿り、そして生み出されます。神の言葉と人間の理性と体の協力関係です。

もちろん、神の国は、ひとりでに成長し、広がって行くものですが、私たちが協力をするときに、それは目に見える形で私たちの中に、私たちの間に現れるのです。

ルターは「喜ばしき交換」という言葉で表しますが、神の良いものと人間の弱さが交換される、つまり、神は救いをもって人間を訪れ、人間は罪深さをもって神の救いと向かい合う、そこで喜ばしき交換がなされるということです。

神と人が協力するときに、愛でおられる神の姿、つまり、愛する、赦すということが具体的な形を成し、完成していくということ。

今、イエスさまは、ペトロに、それを求めておられるのです。「あなたは私と協力して一つのものを完成させますか」、「そのためにあなたは、私の器になって私の愛をいっぱい納め、それを人々と分かち合いますか」と。

何か大切なことを、誰かと協力関係で行うということは、それほど容易いことではありません。

関東地区の教会同士は、六年ほどの時間をかけて共同牧会・共同招聘、チームミニストリーについて学びました。当時、この企画を提案したのは私ですが、それは地区の教会同士がばらばら状態であることを案じたからでした。まずは一緒に学ぶ事で互いの違いを知り、互いがもう少し近づくようになったらいいと思いました。しかし、今年からは、各分区で取り組むことになりました。その理由は、「自分の教会のために地区は何をしてくれるのか」、それを求める教会が多かったということにあると思います。

イエスさまが十字架刑にかけられる前、弟子たちは、イエスが私のために何をしてくれるか、どう役立つかを考えていました。自分の出世のためにイエスの力を活用したいと願い、その目的を達成するために彼らはイエスに従っていたのです。

しかし、信仰が自分自身の願望に向いているとき、神との協力関係の調和は生まれません。自分中心であるそのような生き方は、人間関係においても上手くいかないものです。夫婦関係がよくそれを現していると思います。結婚式の中で、一心同体のように愛し合うと誓いますが、しかし、途中で道をそれてしまうのは、互いの必要に協力し合おうとする共感を忘れてしまうときです。

相手の必要ために自分を明け渡すという協力関係こそ、美しい調和を可能にする、豊かな生き方であるという事実に、ティベリアス湖畔の朝食に招かれた弟子たちは、やっと気づきました。さらには、神が求めておられるのは、何か上手にできるようなことではなく、私の弱さ、罪深さを差し出すことであることに気づいた。焼き魚とパンを分け与えられたイエスの食卓を囲んで、弟子たちは、自分の計り知れない罪が復活の主がくださる愛と赦しの中で喜びと平和に変わっていくという深い気づきが与えられました。

今、私たちも招かれています。主のみ言葉の食卓に、主の体と血に与る聖餐の食卓に来て食べなさい、体いっぱいに愛と赦しの賜物が宿るように、私たちひとり一人は招かれてここにいます。主は、私たちを必要としておられます。そして語りかけておられます。あなたの弱さの中に私を受け入れて交わろう、私と一緒に生きよう、そして一緒に働こう、私のものをすべて委ねるから、あなたはそれらを人々に分かち合ってほしいと。

罪深さから現れる愛の告白を待っておられる神さまと一つにされるときに、私たちは心と思いが一つにされ、この教会を神の国の入口にし、多くの証が生まれる共同体となってゆくことでえしょう。