留(どど)まってこそ見えるもの

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ヨハネによる福音書20章19~31節

留(とど)まってこそ見えるもの

目で見ることができなかったら、他の方法で見ることを探しなさい。
手に力があるときは手で書き、口に力があるときは口で朗読して書く。

この言葉は、韓国の有名な作家で、学生たちにも人気があった方が残した言葉です。人生の晩年を迎えたこの作家は、書くことは手だけを使うのではない、。体全体を使って書くのだと述べたのです。

コロナ禍の生活が長引くと、何かと失われるものばかりに関心が向きます。しかし、コロナ禍の中だからこそ、私たちは、今まで気づかなかったことに気づき、たくさんの良いものがほんとうはあったということに気づくのではないでしょうか。

まだまだたくさん良いものが残っている。私たちひとり一人の人生もそうですが、教会の営みも同様です。これしか残っていない、いったいどうしたらいいだろうというようなとき、そこにじっと留まってみると、思いもしなかったところにもっと良いものが残っていることに気づかされたりします。このことを考えるときにいつも思い出す物語があります。

列王記上19章の預言者エリヤの話です。アハブ王の妻のイゼベルから追われて荒れ野へ逃れるエリヤの話です。エリヤはイゼベルが拝むバアルに仕えていた預言者たちを殺してしまったために、イゼベルの怒りを買いました。エリヤを殺そうと怒り狂うイゼベルを恐れて荒れ野のホレブ山のふもとにまで逃げて来たとき、彼は一本の木の下に座り込んでしまいます。そして、呟きます。「主よ、もうたくさんです。私の命を取ってください」と。しかし、神さまは、み使いを遣わして食べ物を運んで彼を養い、疲れを癒して回復させ、再び立ち上がれるまで見守ります。

その後、ホレブ山で主はエリヤと語り合います。「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」と。するとエリヤは、不満と苛立ちのうちに、自分のやってきたこと、自分の正しさを述べ、正しい者はみんな殺されて自分一人しか残っていないと訴えます。そのエリヤに、主はこう述べられます。「来た道を引き返しなさい。・・・私はイスラエルに七千人を残す。すべて、バアルに膝をかがめず、これに口づけをしなかった者である」と。

エリヤには、自分の味方は皆殺されて、自分一人しか残っていないと思いました。しかし神さまは、まだバアルに跪いていない者が七千人も残っているとおっしゃるのです。

さて、ユダヤ人を恐れて部屋の中に閉じこもっている主の弟子たち。彼らは、かつてイエスさまが行うあらゆる奇跡を体験して驚いたり、神の国の福音を聞いて感動したり、大勢の人が感嘆するイエスを師として従うことができたことに感謝した人たちです。師への尊敬の思いが強く、師のためなら命をも捨てると誓うほどでした。

しかし、いざそういう時がきたら怖くて、イエスとのつながりまで否定して、逃げて、今は部屋の中に閉じこもって、すべての扉に鍵をかけています。一所懸命に従ってきたことが台無しにされて、虚無感に襲われ、人に対する疑い、死への恐れにまみれた混沌とした世界の中にいます。従ってきたイエスは殺され、希望も失いました。残ったものは何もありません。せめて命だけも保てればという思いの中に閉じこもっています。

彼らは、イエスさまが大好きな人たちでした。つまりそれは、イエスの人間的な面に憧れてきたのでした。死者をも生き返らせるイエスの癒しの力、人々の心を捉えるイエスの素晴らしい説教、虐げられて小さくされた人々との連帯・・・彼らはそのイエスに憧れたのです。イエスさまがなさったことは確かにその通りのことです。しかし、弟子たちは、イエスの中におられて、イエスと一つになって、イエスを通して働かれる神の存在には気づかなかった。いいえ、薄々は気づいていたのかもしれませんが、イエスの内面にまで入っていってイエスさまと交わることはできなかった。それは、余裕がなかったからでしょうか。そうする必要を感じなかったからでしょうか。

私たちも人のすばらしさに憧れることが多くあります。素晴らしく見えるものは、時と場合によっていつでも変わりうるものです。目に見えるもので変らないものはありません。しかし、夢中になってしまうとそのことを忘れてしまいます。自分自身に対しても同じです。つい若かった頃と今を比較して、今の自分は何もできない、誰の役にも立たなくなってしまったと落胆します。希望のない、閉ざされた部屋の中にいて、混沌とした世界をつくっています。自分への執着です。

復活の主はそのただ中に入って来られ、真ん中に立ってくださいました。そして、「あなたがたに平和があるように!」と。これはただの挨拶ではありません。「あなたがたに平和があるように!」。この言葉は、天地創造の際の初日に神さまが、「光あれ!」と言われた、それと同じ言葉です。混沌とした闇の中に、「光あれ!」と神さまから命じられると光が現れ、闇と光が分けられました。そして、光は昼になり、闇は夜になりました。

先週から、幼稚園の年長組の子どもたちへの聖書の話が始まりました。天地創造の中で一番初めに造られたのは光で、神さまがお言葉で「光あれ」と命じられると光が現れた話をしたら、子どもたちからこんな質問が来ました。「神さまは光よりも先にいたの?」、「神さまはどんな言葉で『光あれ』と言ったの?」と。

皆さんは、神さが光よりも先におられたかどうか考えたことがありますか。神さまが話される言葉のこと、どんな言葉で天地創造をなさったのでしょうか。子どもたちはとても哲学的で、神学の世界にいます。純粋なものが神学をするのだと、今回も改めて考えさせられました。

イエスさまは、閉ざされた混沌のただ中にいるひとり一人の真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」、つまり、「あなたの暗闇の中に光あれ!」とおっしゃって、暗闇に捕らわれている人を暗闇から解放してくださいました。それから、手と脇腹の傷をお見せになりました。

光だけが暗闇を照らすことができます。真の光だけが、深い闇から人を救うことができます。その真の光に照らされなければ、人は、自分が何をしているのか、今どんな状況に置かれているのか気づきません。相手の傷や弱さに気づくこともできません。その傷は、本当はこの私が与えたものなのかもしれないのに、暗闇の中にいるときには、むしろその傷や弱さを、自分を正当化するものとしてしまいます。

トマスがそうでした。彼は、留まることを知らない人で、復活の主の平安の中にいない人です。ですから、仲間たちから復活の主の話を聞いたときに、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をその脇腹に入れなければ、私は決して信じない」とひねくれるわけです。自分が何を言っているのかわからない、混沌とした世界にいます。

真の光への招きの言葉。真の光の中に留まるときにのみ、私たちは、イエスさまの中の神聖、神の現存に気づくことができます。そして、そのときにはじめて私たちは自分のエゴを捨て、相手の傷も見えるようになり、自分がとんでもない罪人であることを告白するようになります。さらには、イエスさまの神聖さ、そこにある神の現存の中にこそ、神の国の遺産が受け継がれていることに気づかされるのです。

イエスさまは弟子たちに平和をお告げになり、さらにこう勧められています。

「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがた赦せば、その罪は赦される、誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と。

弟子たちは、罪を赦す者として派遣されます。閉ざされた者ではなく、開かれた者として生きるように。自分自身に対して生きていた歩みを、これからは神に対して、人に対して歩き出すようにと遣わされています。

留まってこそ見えるものがあります。キリスト・イエスの平安の中に留まって、真の平安の中に自分を委ねてこそ、私たちは、たとえ自分が病弱であっても、歳を取って弱くても、教会がどんなに貧しくても、そこには七千人ほどの豊かなものがまだ残っていることに気づかされます。罪を赦す歩き方をするということは、それだけの多くの仲間を得て、多様で豊かな交わりが生まれると言うことなのです。

見たから信じたのか、見ないで信じる人は、幸い」と言われたイエスさまのおことばに励まされて、イエスさまを死者の中から復活させられた偉大な神の現存を、私たちの日常の中で、私たちのただ中で気づく、そういう始まりを祈り求めます。