神さまのヘソクリ

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ルカによる福音書13章1~9節

神さまのヘソクリ

時々、イエスさまは農夫だったのではないかと思います。もちろん、父ヨセフが大工でしたので、大工のお手伝いをしていたと思われます。しかし、お話の中にぶどう園のことや麦畑のことが多く登場するので、農業をもしておられたのではないかと思うのです。今日も、ぶどう園のことがたとえ話にのぼりました。

ある人がぶどう園にイチジクの木を植えておき、実を捜しに来たが見つからなかった」(6節)と。そして、その人は、「『もう三年もの間、このイチジクの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。切り倒してしまえ。なぜ、土地を無駄にしておくのか』」と怒っていると。

不思議なことがこのイエスさまのたとえ話の中にあります。イチジクの実を探しに来ているこの人は、どうしてぶどう園の中にイチジクの木を植えたのか、ということです。隅っこに一本くらい他の木を植えておくのはそれほどおかしいことではありません。しかし、なぜほかの木ではなくイチジクの木だったのでしょうか。

乾燥地のパレスチナの地質にはイチジクの木が無難だったこともあったかもしれません。しかし、この記事からは、植えた人が、このイチジクの木に実がなることをとても楽しみに待っている様子がわかります。ぶどう園の中に植えたこのイチジクの木に対するこの人の思いは、特別なものであることが想像できます。

私は、この人の気持ちを考えるとき、密かにヘソクリをもっていて、それをいつ使おうかと、使う時を楽しみにしている人の気持ちに似ていると思いました。よくお父さんたちがお母さんにばれないようにヘソクリをもっていたりします。ところが、それがばれて、全部取られてしまう場合もあります。時には、家に緊急なことが起きたときに、それが役立つ場合もあります。けれども、できれば、ばれずに、隠し金があるという密かな喜びを味わうことに、ヘソクリの魅力があるのかもしれません。

しかし、それだけ楽しみにしている人の気持ちなどまったく知らないのように、このイチジクの木は、三年間も実りをつけることがありませんでした。待ちくたびれた人は、そのイチジクの木を切り倒してしまえと園丁に命令して、怒っています。

ところが、園丁がイチジクの木とご主人の間に入り、イチジクの木のために取り成しをしています。

「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください」(8~9節)。

イチジクの木は実がならなくなったら、木の周りを掘り、肥やしをやるというのが基本的な世話の仕方であると、専門書に書いてあります。今日いちじくの木のために執り成しをしている園丁の言葉通りの手順です。ですから、今日、この園丁が述べていることは、農業の技術や知識から見てきわめて順当です。つまり、当たり前のことを、もう一度やってみます、ということでご主人の怒りを収めています。

この園丁の執り成しを、イチジクの実を楽しみにしている人は受け入れたのでしょうか。その後のことは記されず、私たちは、少なくとも三年に一度はこの箇所の福音を聞いています。そして、三年に一度聞くことを何回も繰り返しています。その度に気づくことは、その私が、切り倒されずにまだ生きている、神さまの前に招かれているということです。

ぶどう畑に植えられていて、実ることのできないイチジクの木。それは、私たちのことを指しています。私たちが植えられている所は、ぶどう園、つまり神の国です。この世からつれてこられて、神の国という豊かな地、ぶどう園に植えられました。園丁であられるイエスさまが私たちを植えてくだったのです。自分で入ったのではありません。

本当はこの世をさ迷い、ぶどう園の中に植えられなくてもよかった、見捨てられて当たり前の私たちがイエスさまに見つけ出されて、神の愛を生きるのにふさわしい者とされたのです。そんな私たちにかけられている神さまの期待、その楽しみは、秘かなヘソクリのように、大きな声を出しては言えないけれども、神さまの静けさとその聖なる沈黙の中にあるのです。それによって私たちうちに、神さまの品性が育まれているはずです。神さまの品性はひとりでに実を結ばせる尊いものです。ですから神さまは、今年か、次の年か、もう一年待てばその年こそと、愛するからこそ期待しておられるのでしょう。

しかし、今年も園丁でおられるイエスさまが、神さまの前で私のことを必死に祈ってくださっているということ。

なぜイチジクの木は実ることができないのでしょうか。豊かなぶどう園に植えられていて、園丁が正しい世話の仕方で木の周りを掘って肥やしをやって下さっているのに、どうしてイチジクの木はそれに応えられないのでしょうか。

その理由を、イエスさまはイチジクの木の記事の前の方で教えてくださっています。
ちょうどそのとき、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことを、イエスに告げる者たちがあった。イエスはお答えになった。『そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのすべてのガリラヤ人とは違って、罪人だったからと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのすべての人々とは違って、負い目のある者だったと思うのか。決してそうではない。あなたがたに言う。あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる』」 (ルカ13:1~5)。

先週の水曜日の夜、福島沖を震源地とする地震がありました。長い揺れと不安で、皆さんも眠れない夜だったのではないかと思います。2011年3月11日のことを覚えて祈った直後に、また東北で地震かと思うと、東北の方たちはどんなに驚いたことでしょう。

しかし、そういうときに、東北の人々が、その先祖が何か悪いことをしたから続けて大変な目に遭っているというような、誤った話が流行ったりします。今日、イエスさまが教えておられることは、そうではないということを厳しく指摘しておられます。そうではなく、神さまの圧倒的な愛に気づかずにいる私たち人間の愚かさ、それを悔い改めないことの悲しみについて述べておられるのです。

悔い改めるということは、どういうことでしょうか。

先週、私が飼っている愛猫が手術を受けました。口の中のほっぺに異物ができて、大宮の頃からわかっていたのですが、なくなると思って放っておいていたのです。しかし、段々悪くなって手術をすることになりました。朝預けて夕方に迎えに行ってみると、首にエリザベースカラーをしていて、猫ケースの中で彼女は「グー」と怒っているのです。帰りの道の車の中でもずっと怒っていて、家に入って玄関でケースを開けようとしたら大暴れ。まるで、森の奥にいる獣が泣くような声を発して怒り、暴れる、そんな猫を始めてみました。怖くて、園長先生を呼びに行こうと思っているところ、自分の力でケースの蓋を壊すようにして開けて階段を走って家の中に入っていくのでした。恐る恐る家の中に入って探していると、私のベッドの下に隠れていました。

それまでに、この子は他の猫のように怒って「ヒー」とか「フー」とか一度も出したことがない、いい子、可愛い子。祈るときには座布団の上に一緒に座って一緒に祈ってくれるし私の霊的パートナー、こんな猫この世にはいないと自慢していました。しかし、その小さな体が獣のようになって暴れ、吠えるような声、命の危機の前で必死にありのままを出す姿を見て、私はペット離れをしたような気がします。

息子が思春期に、私に対して、まさかと思うような言葉を何回か吐いたとき、「あ、この子は私の息子以前に一人の人間なのだ」と大切なことに気づいて、その時子離れができたのです。そのことを思い出しました。

この猫も、私のペット以前に、一匹の大切な命の所有者であり、彼女はそれを自分のものにして生きる権利をもっていることを認めた時でした。

つまり、私は、猫を私のもの、私の所有物にしていたのです。今はエリザベースカラーも外されて、自由になって、いつもの可愛い猫で、おやつを求める声がハスキーになっておかしく笑ってしまいますが、彼女のことを尊重するという、いい距離感ができたことに気づかされます。

悔い改めたのです。私が飼っている私のものという所有者意識が強くあったことに気づかされました。そして、猫だけではなく、私は、どれだけのものを所有し、さらにはもっと所有しようとしているのだろう。

人に迷惑をかけていないようで、私は、自分の所有物を増やすことで、必要としている人々から多くのものをお金で奪い取って生きている者です。

自分で持ち物を増やしながら、背負っているものの多さに力が尽きてきて疲れたと呟き、それでも背負っている多さに気づかない。そのために体があちらこちら壊れてきて、病気を抱えるようになっても、背負い続けていようとするのです。ですからいくら霊的実りを求めても、この世のものでいっぱいになっているために、実ることがないのです。

イエスさまは神さまの前でそんな私たちのことをかばって、祈ってくださっています。「今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。もし来年実を結べばよし、それで駄目なら、切り倒してください」と。

もう一年執行猶予の期間が与えられました。私たちは、神さまにとっては、ヘソクリのように大切で、何にも比べられないほど尊い者です。必要以上に所有しているものを手放しましょう。神さまの両腕にすっぽり包まれるぐらいスリムになるように、この四旬節、悔い改めの歩みを続けましょう。

希望の源でおられる神が、あらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。
父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。