しかし、お言葉ですから

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ルカによる福音書5章1~11節

しかし、お言葉ですから

先週、立春を迎えました。立春が過ぎると、春の訪れが聞こえてくるような気がします。土の中の命あるものたちが動き出す音が聞こえます。冷たい風に混じっている春の温もりを皮膚で感じます。そして、寒さに負けず咲き香る桃や紅梅の凛とした姿に、ちぢこまっていた私の体がまっすぐに立たされます。

立春はこうして新しい季節の訪れを告げる二十四節気の一つでもあり、二十四節気の一番初めに置かれています。つまり、春の訪れから暦は始まるということです。教会も立春のように、人の人生の最も寒い時期に、その寒さの終わりを告げる福音を人々に告げ知らせるのです。

さて、春の訪れを感じながら、今日私たちは、漁師たちがイエスさまから呼び出される、召命物語をルカ福音書から聞きます。漁師たちの召命物語を、ルカ福音書は他の福音書とは違うふうに描いています。ルカは、イエスさまが漁師たちの船に乗って沖の方へ行き、一緒に漁をされる姿を描いています。ここにルカ福音書の特徴があります。ルカ福音書のイエスさまは、弟子たちの仕事の現場に入り、彼らの事情や、心の状況に関与なさいます。

それは優しそうで、しかし毅然(きぜん)とした関与であるゆえに、人間的には失礼な関わり方のようにも見えます。つまり、漁師の家に生まれ、物心がついた頃から漁をしてきた人たちに、海の上で、イエスさまが漁の仕方を指示されるのでした。しかも、とんでもない時間帯に、「沖へ漕ぎ出し、網を降ろして漁をしなさい」と命じておられるのです。真昼間は漁をする時間帯ではなく、休むときです。当然ながら、漁師が言い返します。「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も捕れませんでした」と。

そうなのです。漁は夜にするものなのです。だから、漁師の仕事は厳しいと言われるのです。夜の海は変わりやすく、いつ突風が吹いてくるかわからない。彼らは、そのような海で働き、それで生計を立て、家族を養い、自分のすべてをそれにかけてきた漁のベテランです。

しかし、時々、一匹も捕れない時もあります。昨夜がそうでした。漁師たちが虚しい思いで空っぽの船を漕いで、港に着いて網を洗っているところへイエスさまが来られたのでした。イエスさまが来られたその朝は、春の訪れに寒い冬が退き始めたような、彼らの人生が底からひっくり返られる、新しい朝になりました。

皆さん、新しさって何でしょうか。私たちは、服や家電製品、または自分の趣味の道具などを新しく購入した時には嬉しくなります。そのように新しいというのは、その人に喜びをもたらすことです。

聖書が新しいというとき、それは創造性を意味します。形のないところから、確かな形を作り出すこと。ただの土くれから神さまはご自分に象って人間を形づくられました。ただの土の塊が命を吹き込まれて生きるものになったのです。

イエスさまが十字架の上で死なれたとき、人の目にはその命が亡くなったように見えました。しかし、イエスさまは死者の中から復活され、新しい命を世界に宣言されました。死者の中からの復活は、最高の創造です。

創造的な生き方。創造性に富んだ人生の歩み方。漁師たちは、イエスさまによってその可能性を生きる道を見出しました。

漁のプロとして働いていた海で、漁をするのは夜であるという専門知識に反することを言われたとき、つまり、「沖へ漕ぎ出して漁をしなさい」とイエスさまから命じられたとき、彼らは、「先生、私たちは夜通し漁をしましたが、何も捕れませんでした」と反問はしました。「しかし、お言葉ですから、降ろしてみましょう」と、彼らは、自分たちのそれまでの知識と経験のすべてをイエスさまに委ねたのです。

「しかし、お言葉ですから降ろしてみましょう」。この「しかし」から、すべては新しく始まります。自分の知識や疑いを、まずは打ち消すことから従うことは始まるのです。その作業は自分がするものです。だれも、私の中の知識や疑いを消すことはできません。私の中のすべてを動かすのは私だけです。ですから、ここで重要なのは、イエスさまのお言葉の前で、言い訳が山ほどあっても、常識ではないとも思っても、「しかし、お言葉ですから降ろしてみましょう」という、信頼をささげることができるかということです。

信仰の歩みの中で、この「しかし」が言えなくて、私はどれだけの葛藤と疑いの中を歩いてきたのかわかりません。自分の考え方や言い訳、知識や理性や合理性に強く捕らわれていたために、イエスさまの一言のお言葉を聞く余裕もない歩み方をしてきました。

私たちのほとんどは、そうだと思うのです。ペトロのように自己弁明をするのです。自分の置かれた状況は誰よりも自分が知っていると思うから、人に少しでも口を突っ込まれたら嫌な気分になります。場合によっては、親子や夫婦の間でも、突っ込まれることが許されない時代を私たちは生きています。人権やプライバシー、個人情報を守るためにということの行きすぎが、信仰生活の核心的なところで弊害となっている場合が多くあると思うのです。

しかし、どんなに人権やプライバシーが守られているとしても、一人の人間の深みにある虚しさを補うことはできません。人から愛を求めても、あるいはお金で新しいものを買って紛らわせようとしても、一度場を取り始めた死の支配下にある虚しさ、その虚無感を満たす力はないのです。なぜなら、それは神の領域だからです。そここそ、神と人間が交わる信仰の場ですから、神以外の誰も介入できません。その神さまを受け入れるかどうか、それは私次第であるということです。

その場を神に譲るということは、人間の自己解体とも言えるかもしれません。つまり、利益主義やエゴの実現のために生きていた人間の解体のときです。

ペトロは解体されました。

しかし、お言葉ですから、降ろしてみましょう」と従うことを通して、彼らは、神々しいい場面に出会ったのです。真昼間の海で、網が破れるほどの量の魚が捕れました。もう一艘の舟に来て助けてもらわなければならないほどの量の魚が捕れたのです。その時、ペトロは言います。「主よ、私から離れてください。私は罪深い者です」。自己解体の瞬間です。自分の魂の深みに神との交わりを受け入れる人の姿がここにあります。新しい命の始まりです。

漁師たちに春が訪れ、新しい命が芽生えるようになりました。まさか、漁師が人間をとる者になるということ。聖書研究の専門家でもなければ、礼拝学者でもなく、学歴もない漁師がイエスの福音を宣べ伝えるに最もふさわしい者として選ばれました。彼らは、社会の中心にいる金持ちや権力者から見たときには、隅っこに追いやられた人たちです。その隅っこでイエスさまは人間をとる漁師を得るための漁をなさっておられるのです。

漁師たちは、自分が今まで信頼を置いていた船も、仕事も、家族も、家も後にして、直ちにイエスさまの道へ立ち上がりました。自己が中心であった古い道から、イエス・キリストが中心になる新しい道に移って歩き出したのです。

私たちも同じくイエス・キリストの道のりを歩いています。イエスに信頼を置いて生きるために、古い道と別れを告げてここにいます。つまり、「主よ、私は罪深いものです。私から離れてください」という心の深いところの破れを経験して、ここにいます。

そして、もう一度、この漁師たちの姿を通して、人間をとる漁師としてイエスさまの後についてゆく道がどんな道かを復習しています。

つまり、自分のエゴを中心にした生き方に慣れてしまっている私と、イエスさまを中心にして生きようとする私が葛藤しているのです。その私が、ばらばらの状態ではなく、一つの道を選び取って本当に幸せになるようにと、イエスさまは今私たちの人生の深みに立っておられます。そのことを私たちは何回も復習するのです。

今年は、教会の標語も「心を一つにし 思いを一つにする」に決めましたから、私たち自身がまずそれに合わせて、自分自身を一つにすることからスタートしてみましょう。

イエスさまは常にみ言葉を携えて私たちの生の深みに関与して来られます。「あなたの人生の海に網を降ろして漁をしなさい」。このイエスさまのお言葉を受け入れるかどうかは、私たち各自の決断です。皆様の歩みが幸いでありますようにお祈りいたします。

希望の源でおられる神が、あらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。