起きて食べなさい

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ヨハネによる福音書6章35節、41~51節、列王記上19章4~8節

起きて食べなさい

「早く起きて食べなさい!」数年前まで、毎朝、この言葉を何度繰り返したことかわかりません。我が家では朝ごはんはしっかり食べることを大切にしていたので、子どもは、学校に時刻しながらも朝ご飯だけはきちんと食べていきました。ですから、登校時間のぎりぎりまで寝ている息子を起こすことが、毎朝の私のストレスでもありました。今日の第一日課を読みながら、あの頃のことを思い出して懐かしい思いがしました。

第一日課の列王記の中には、エリヤは荒れ野の中へ入って行って一日中歩き続けて疲れ、えにしだの木の下に座り込んでいる様子が書かれていますが、それは、アハブ王の妻であるイゼベルから命が狙われたからでした。彼はバアル預言者たちと闘った末、バアル預言者たちを殺してしまったのです。バアル預言者たちはイゼベルに仕える人たちだったために、その話を聞いたイゼベルは、怒り狂って、エリヤを捕まって殺そうとしていたのでした。イゼベルから逃れたエリヤは荒れ野に逃れ、一日中歩き続けた末、疲れ果て、えにしだの木の下に座り込み、死にたい、いっそう死んでしまいたいという思いに捕らわれ、そのまま眠ってしまいました。

そのエリヤをみ使いが起こします。「エリヤよ、起きて食べなさい」と、彼に触れながらみ使いは深い眠りに入っているエリヤを起こします。起こされたエリヤは自分の前に用意されてあるパン菓子を食べ、水を飲みますが、また寝てしまいました。み使いはもう一度彼を起します。そしてこんなふうに言います。「起きて食べなさい。この旅は長く、あなたは耐え難いからだ」と。

起きて! 食べなさい! この旅は長い! あなたには耐え難い旅である!

エリヤに向けられたこのみ使いの言葉のすべてが、今私たちが置かれた状況をよく表していて、私たちが必要としていることを述べていると思いませんか。コロナ禍の中、長い日々を自粛の中で過ごしていますが、どんどん感染者は増え続けていて、今私たちは一緒に集まって礼拝に与ることもできない状況です。内面の深いところでは、エリヤのように追われる思いの中で、疲れた歩みを続けています。それは、コロナだけのせいではなく、いろいろのところから来た疲れを抱えたまま歩き続けているのです。疲れた状態のまま私たちは、「自分」という木の下に座り込んでいる。つまり、神さまに対して眠った状態でいます。

そんな私たちのところにみ使いが遣わされてきています。そして、食卓を整えては起こしてくださっています。「起きなさい、起きて食べなさい、この旅は長く、あなたには耐え難いからだ。さあ、起きて食べなさい」と。食卓の中身は何でしょうか。食べた人だけがわかるものでしょう。エリヤはパン菓子を食べ、水を飲みました。

本日の福音書の中でイエスさまは、ご自分こそが天から降ってきたパンであり、ご自分を食べる人は死なず、永遠に生きるとおっしゃっておられます。私たちの前に整えられている食卓は、イエスさまご自身であるということでしょうか。それではイエスさまはどんな味がするのでしょうか。味わうためにも起きなければなりません。

私の息子は5~6回くらい大きな声で呼んでもなかなか起きないので、私の声はどんどん大きくなって、怒りっぽくなっていきます。起き上がった息子は、朝からうるさいな!と言って、黙々とご飯を食べて学校へいきました。

私自身は、神さまに何十回、何百回も呼ばれているのに、全く起きないでいるのだと思います。しかし神さまは、腹を立てたり、声を荒げたりしないで、優しく食卓を整えて待っていてくださいます。

エリヤは二度目にみ使いから呼ばれると、完全に起き上がりました。そして、起き上がった彼は、自分がたどり着くべき目的地をしっかり見つめることができました。彼のたどり着くべき目的地は、神の山ホレブです。つまり彼は、これからは神さまに向かって歩き続けるという歩みへ立ち返ったのです。以前は自分自身に対して歩いていました。ですから、一所懸命に神さまの栄光を現すような良い働きをしても、結果が自分の思うような形になっていかないと、こんなはずじゃなかった、もうこんなことは嫌だ、いっそのこと死んだ方がいいという思いに捕らわれてしまうのです。しかし、神さまに対して起き上がって、神さまが準備してくださった食べ物を食べたエリヤは、四十日四十夜を歩き続けて、神の山ホレブに着きました。神さまが準備してくださる食べ物は、四十日四十夜を歩き続けても疲れない食べ物ですね。

先週、私はこの主の食卓に招かれている方に出会いました。田坂和子さんを訪ねたのです。予約を入れてお会いしても、面会の時間はたった十五分です。その短い時間の中でどうやって和子さんを慰め、励ますことができるかと祈りながらお訪ねしました。ところが、久しぶりにお会いした和子さんの顔が輝いておられました。この施設の食事が美味しいようだなと思いながら椅子に座るや否や、和子さんは、「今とても幸せです」とおっしゃるのです。ある車椅子の方が、和子さんのことを頼っておられるのだそうです。何ことにも「田坂さん!田坂さん!」と呼んで頼ってこられるので、それがどんなに嬉しいのかわからないと。杖をついて何の役にも立たないはずの自分が、誰かの頼りになっていること、それがとても嬉しいとおっしゃるのでした。そして、今の自分は教会にも行けないし、目の調子も悪くて聖書もあまり読めないけれども、今までの信仰生活の中でいちばん神さまの近くにいるような気がするとおっしゃるのでした。和子さんは、本当にいい食事、歩き続けても疲れないような、主の食卓でいただいていると確信しました。和子さんを慰めようと訪れた私の方が和子さんに励まされ、嬉しくて、車の中で、大きな声で賛美をしながら帰りました。

杖を突いてやっと歩けるような和子さんが四十日四十夜を歩いても疲れないように食卓でいただいておられる。和子さん曰く、時々教会の皆さんから便りをいただいたり、先生がこうやって訪ねてきてくださったりするからとおっしゃっておりましたが、それだけではありません。車椅子の方が和子さんの名前を呼んで助けを求めてこられるということ。その方は和子さんに霊的食卓を整えてくださるみ使いなのです。和子さんはその声に起き上がって、その方が必要としていること、つまり、ただ傍にいることだけなのですが、そうすることで整えられた食卓のもてなしをいただいておられるのです。ただその方の傍に居るだけのことですが、それが聖なる交わりであり、生きる命の源となるパンをいただくことであると、今回私はとても大切なことを教えられました。

イエスさまは、最後の審判の場面の話をされたときに、羊と山羊を右と左に分けるたとえ話をなさいました。そこで人々は聞きます。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(マタイ25:37-39)。そう尋ねる人々に向かって、イエスさまはこう答えられました。「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と。

貧しい人、病人の人、拒絶されている人、死にかけている人、囚われている人、一人ぼっちの人・・・交わりを必要としている人々が、私たちの周りには大勢います。特に世界がコロナウイルスのために大混乱の中に陥っている今、どれだけの人が疲れて、死にたい思いにさらされていることでしょうか。木の下で死ぬことを願って座り込んで眠ってしまったエリヤのように、私たち自身も疲れているのかもしれません。しかし、神さまは食卓を用意して疲れた者に食べさせようとしておられます。死にかけている人を救い出すために、逃げて来た暗闇の世界の中へ再び遣わそうとしておられるのです。エリヤはホレブの山から再びイゼベルのところへ遣わされてゆきます。私たちも、恐れて逃げようとしているところへ再び遣わされてゆくのです。

遣わされるところがあるということ。貧しい人、病人の人、拒絶されている人、死にかけている人、囚われている人、一人ぼっちの人・・・この方たちがおられるということは、私たちにどれほどの慰めなのかわかりません。なぜなら、イエスさまはその方たちを通して私たちのところへ来られるからです。そのイエスさまに出会うために、さあ、起き上がりましょう。主の食卓が私たちの前に準備されています。起き上がって聖なる交わりに招き入れられて、一生涯を歩き続けても疲れない力をいただきましょう。聖なる山ホレブに着くまで、私たちの旅はまだまだ長いのです。

望みの神が信仰からくるあらゆる喜びと平和とをあなたがたに満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。

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