神の国とこの架け橋

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マルコによる福音書6章14節~29節

神の国とこの世の架け橋

熱海市伊豆山地区で、大雨のために土砂が崩れ、大きな被害が起きました。多くの人の命が失われました。また、温泉を配給する装置が流されてしまったために、近隣の温泉が営業を休止せざるを得なくなりました。毎年雨による被害が日本全国で起きていて、その度に思うことですが、安全な建物を建てることは、場所選びにかかっていると思います。どんなに立派な建物を建てても、土台がしっかりしていなければ、災害が起きたときに耐えられません。

このことは私たちの信仰のありようにとても似ています。どこに立つか、何を土台として立つか、今自分が立っている所はどこなのか、そのように問われていると思います。

さて、先週の福音書の中で、イエスさまから遣わされた弟子たちは、大きな働きをして帰ってきました。このように書いてありました。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6:12~13)と。

弟子たちのこうした働きの結果、多くの人々の中にイエスさまの名前が広がり、宮殿に住むヘロデの耳にまで、イエスさまの名前が伝わるようになりました。それで、ヘロデはイエスさまのことを、死んだヨハネが生き返ったのだと思い、心が落ち着きません。なぜなら、彼は、ヨハネを殺してしまったからです。つまり、殺してはならない人を殺してしまったという、自責の念に陥っているところで、ヨハネと同じく悔い改めの福音を伝え、病人を癒すイエスさまの名前を聞いたので、彼は、イエスのことを生き返ったヨハネだと思ったのです。

さて、ヘロデのことですが、彼はヘロデ大王の息子ヘロデ・アンティパスです。ヘロデ大王が死に、イスラエルは三分割され、三人の息子たちが領主になってそれぞれ治めるようになります。洗礼者ヨハネが活躍していたユダの地方を治めるようになったのが、ヘロデ・アンティパスでした。他の二人の名前は、ヘロデ・アルケラオスとヘロデ・フィリポです。このフィリポの妻を、野心家であるアンティパスが自分の妻にしたのです。そのことを洗礼者ヨハネから、律法に適っていないと指摘され、アンティパスは、ヨハネを捕えて牢屋に入れていたのでした。

ヘロデ・アンティパスは、本日の福音書の中にも書かれているように、自分のしたことを指摘するヨハネのことが気に入りませんでした。しかしそれほど嫌いではありませんでした。彼はヨハネのことを、正しい人、聖なる人だと認識していました。ですから、ヨハネのことを恐れつつ、ヨハネの悔い改めの呼びかけに、当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたというのです。そして、ヨハネのことを消そうとする勢力からヨハネを守ろうとさえもしていました。

しかし、彼は権力者であり、兄弟の妻を奪うほどの野心家です。ヨハネを通してヘロデにもたらされた善意の心は、ヘロデの中で本当は宝のようなものでした。しかし、それはあまりにも小さすぎて、彼の中でその宝は生かされませんでした。彼の心の地盤が権力や名誉、野心というもので固まっていて、福音が根をおろして成長するまで至らなかったのです。

ヨハネが牢屋に入れられている状況とは相反して、ヘロデの宮廷では誕生パーティーが開かれていました。ヘロデ・アンティパスの誕生日を祝っているのです。そこにいる人々のほとんどは、この世での成功を収めようとする人たちです。ヘロデ自身はもちろん、彼の下で働く人たち、政治家も、知識人も、宗教家もいたことでしょう。そして彼の妻と彼女の娘さえも、富と権力を手に入れるために目が眩んでいます。そこでは、楽器が奏でられて興をそそり、踊りが披露され、お酒に酔った人たちを楽しませています。

その宴会の場で、ヨハネの死刑宣告が言い渡されます。牢屋にいるヨハネの首をはねてそこへもってくるようにと、ヘロデ・アンティパスが命令を下したのでした。それは、娘の願いをかなえさせるため、正確には、兄弟から奪い取った妻、彼女の願いを聞き入れるためでした。

ヘロデ・アンティパスは悩んでいます。踊っている娘が可愛くて、願うことは何でもかなえてあげると言ったことがこのような展開になるとは思ってもいなかった。しかし、列席者の手前、娘の願いを退けることができなかった。ヨハネの首をはねて持ってくるようにと命令を下すまで、彼はどれだけ悩んだことでしょう。ヨハネは、ヘロデ・アンティパスの人生の中で、初めて福音を伝えてくれたたった一人だったのかもしれません。心の深いところに喜びをもたらしてくれた人、だから守ってあげたいとまで思っていた人です。それなのに、その人を殺さなければならない。

今、ヘロデは、弟子たちの宣教を通して聞こえたイエスさまの名前を聞いて、自分が殺してしまったそのヨハネが生き返ったのだと思っています。彼は喜んでいるのでしょうか。それとも恐れているのでしょうか。

ここで、私たちはヘロデ・アンティパスの誕生日を祝って宴会が行われていた宮廷の状況を思い描いてみたいと思います。宮廷の面では、ヘロデの誕生日を祝うために大勢人が招かれています。成功を収めようとする権力志向の人たち。そして、高価な食べ物や飲み物、楽器と踊りが披露されて盛り上がっています。

しかし、宮殿のどこかに設けられた牢屋には、洗礼者ヨハネが監禁されています。同じ場所に、権力志向で成功主義者たちの祝いの場があり、その権力の被害を被って捕えられて監禁されている神の国の働き人がいるのです。

この世の権力と神の国の福音が、場を共にしているけれども、一方ではこの世での成功を祝い、他方では閉じ込められている状況。これは、私たちの中によく広がる光景ではないでしょうか。私たちはヘロデほどの政治家でもなければ、それほど野心もなく暴力的でもありません。しかし、それなりに政治的であり、この世での成功を収めようとする志向も強く、そのためなら、神さまの福音は心の隅っこのどこかに閉じ込めておこうとする面が強くありませんか。そういう地盤に立ったまま信仰を生きようとするから、度々躓くのです。実は、恐れと不安で心が一杯なのに、それを隠そうとして「敬虔」という衣を着せた姿を見せて、見栄えを良くすることで誤魔化している、砂の上に家を建てたような信仰者、それが私なのです。

その私の耳に、今日、イエスさまのお名前が聞こえてきました。イエス・キリストの名前が私にまで知らされてきたのです。そして招きの言葉が聞こえるのです。「私に従いなさい」という、神の国の招きの言葉が私たちにも届きました。その知らせに、私たちはどう応えるのでしょうか。

イエスさまは、私たちをご自分の愛の中に招いておられます。ご自分のただ中に私たちが入ってくるのを待っておられるのです。それは、私たちを、ご自分に代わって遣わしたいからです。イエス・キリストと言う堅固な地盤を見つけられなくて信仰の家を立てられない人々のところに遣わしたいのです。この世界の状況を知っている私たちは、同時に神の国も知っています。イエスさまは私たちが神の国とこの世を繋げる架け橋になれることを知っておられるのです。私たちが福音を携えて出かけるときに、私たちの中に閉じ込められている神の国の宝がその輝きを放ちます。そしてそのとき、この世の権力のもとで、罪もなく捕らわれている神の国の働き人たちが解放されてゆくのです。

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