大切なきみ

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 聖霊降臨後第2主日

マルコによる福音書3章20-35節

大切なきみ

本日の福音書の表題は、ベルゼブル論争と書かれています。

「ベルゼブル」とは、「バアルゼブブ」というヘブル語が紀元となっているギリシア語です。

バアルゼブブという名前は、旧約聖書の列王記下1章に出てきます。アハズ王は部屋の欄干から落ちて重症を負います。そのとき、アハズ王は、ペリシテ人の領土で祀られていたバアルゼブブに自分の怪我の回復について神託を求めます。それで彼は命を失います。それは、アハズ王のやり方が神さまの目には、イスラエルの神を軽んじたと受け止められたからでした。

バアルゼブブが本日の福音書ではベルゼブルと呼ばれ、律法学者たちは「悪霊」と言い、イエスさまの律法学者たちへの返答では「サタン」と呼ばれています。「悪霊」であれ「サタン」であれ、どちらにしても、ベルゼブルとは、神に対抗する力を意味しています。

実際、今日の第一朗読の創世記3章では、蛇が神に対抗する者として描かれています。神に対立するサタン、つまり悪のシンボルとして蛇が選ばれているのです。当時、イスラエルの近隣国で蛇は永遠の命のシンボルとされ、エジプトの王のファラオの帽子に刻まれるほどでした。永遠の命は神のほかに所有できないものなのに、蛇が永遠の命の所有者のように祀られていたのでした。

神に対立して立つもの。私も、神さまに対立して立つときがあります。一回か二回ではなく、常に対立しています。神さまの御心ではなく、自分の思うようにしたいという強い自我がまだまだあります。それは、今日の福音書に描かれている律法学者たちやイエスさまの身内の人たち、そこを取り囲んでいる人たちと同じです。

律法学者や周りの人たちは、イエスさまにこのようなレッテルを貼り付けました。「あの男は気が変になっている」、「彼は汚れた霊に取りつかれている」、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と。イエスさまのことを批判して、さらにはイエスさまの中で働いている聖霊を「悪霊」と決め付け、神さまに対して強い敵対心を表しています。

どうしてこの人たちはイエスさまのことをそこまで追いやっているのでしょうか。身内の者までイエスを取り押さえようとして来ているのです。それは、イエスさまが本日の福音書の前で行っておられたことがきっと原因になっていると思います。それは、安息日に、弟子たちが麦を積んで食べることをファリサイ派の人々から指摘されたことに対して、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と反論したことが一つです。もう一つは、安息日に会堂の中で手の萎えた人を癒すことで、当時の律法に照らして安息日にやってはいけないことをなさったことです。そして悪霊たちから、「あなたは神の子だ」とひれ伏しながら叫ばれたことです。

悪霊たちがひれ伏す。そして「あなたは神の子」と言われる。そのことが、「あの男は気が変になっている」、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」、「彼は汚れた霊に取りつかれている」というレッテルが貼られる最もの理由だったのかもしれません。安息日にやってはいけないと決められていたことを堂々となさる姿に、律法を管理する人たちは腹を立てたかもしれません。イエスさまは、完全に一人ぼっちの世界に追いやられています。

「たいせつなきみ」という絵本があります。

才能のある人はいろいろなことができるたびに星のシールがもらえますが、何の才能もなく不器用で貧しいパンチネロは、失敗するばかりで、失敗するたびにだめじるしのシールが体に貼り付けられます。その姿が面白くて、人たちはさらに彼の体にだめじるしのシールをつけるので、彼の体はだめじるしのシールでいっぱいになります。ある日彼は何のしるしもついていないルシアに出会います。そしてパンチネロは、ルシアの紹介でエリという人のところに行きます。パンチネロはそこでエリからこう言われます。「わたしはおまえを待っていたよ。わたしはおまえのことをとても大切だと思っている」と。この言葉を聞いたパンチネロはびっくりして、思わず「ぼくが大切?どうして?」と聞き直します。一度も聞いたことのない言葉だったからです。するとエリは、「それはね、おまえがわたしのものだからさ。だから大切なんだよ」と。するとパンチネロは、「どうしたらしるしが何もつかないようにできるの?」と聞きます。エリは答えます。「それは、みんながわたしのことをどう思うかなんてことよりも、わたしの思うことの方がもっとだいじだと思うことさ。シールがくっつくようにしていたのはおまえ自身なんだ。どんなシールがもらえるかってことを気にしていると、シールの方もお前にくっついて来るんだ。おまえがわたしの愛を信じたなら、シールなんてどうでも良くなるんだよ」と。

人並みになりたいとがんばるパンチネロのような姿が、私たちにはないでしょうか。世間のあり方が私たちにそうさせますし、私たちもそうした世間のあり方を当たり前に思って生きているのです。失敗してはならない、迷惑をかけてはならない、評価されたい、さらには優位になってこそという不自由な日々に慣れているのです。私の中に私を閉じ込める律法が沢山あって、その律法を人にも適応しようとします。

つまり、神さまと人に愛される人になりたいと願いつつ、知らない内に神さまの反対側に立って、人を評価し、自分自身を不自由にさせてしまうのです。結局は認められたい強い気持ちが偏屈な思いになり、自由で、誰にも束縛されない生き方をしている人に対して、だめじるしを貼りつけようとしてしまうのです。

しかし、どんなに大きなレッテルをいくつも貼り付けられても、イエスさまの体には何も貼りつきません。イエスさまはこう述べられました。

「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の定めを負う」(28-29節)と。

聖霊を冒涜する罪。それは、聖霊のみが悪霊を追い出すことができるという、決して揺らぐことのない真理を覆すこと。人に対する人間的な嫉妬や偏見によって、あまりにも簡単に人の中におられる聖霊をもひっくるめてその人を丸ごと否定してしまうことです。それが聖霊を冒涜する罪であり、決して赦されない罪のことだとイエスさまは警告をしておられるのです。善と悪とを逆さにして、神の救いの行為を破壊的なサタンの力に帰することは神さまの愛への反逆なのです。それは、自分自身を神の赦しの外に追い出してしまうことです。

罪は憎くんでも人間を憎んではならない、このことを私たちは、日々の生活でよく識別しなくてはなりません。イエスさまは、「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の定めを負う」と言われました。

このお言葉は、私たちが犯したほとんどのことは赦されているということをまず伝えています。ただ、自分の中の聖霊の働き、相手の中の聖霊の働き、それはその人がその人として尊ばれるべき神聖な領域です。それを犯すようなことだけはしてはならないということ。そのただ中に神さまはおられるのです。それをどうやって識別し、守れるか。それは、イエスさまがなさっておられることに倣うことです。安息日の律法を破りながらも、人々から批判されても、そしてご自分の命をささげてまでも、弱さを抱えている人の命の尊厳を大切になさったそのお姿に倣うのです。

そのイエスさまの眼差しが私たち一人一人に向けられています。私たちが、私たちの内側で働く聖霊に気づくときに、私たち一人一人はイエスさまのように、世間に束縛されて不自由な中を生きる人々のところへ遣わされてゆきます。そして、それはどんな星のシールやだめじるしシールにも捕らわれることのない自由な道です。皆さまの中で働かれる聖なる霊、その神聖さを称えます。

 

ユーチューブはこちらより ⇒ https://youtu.be/fWP5UW9eZXs