低く降り 高く昇る

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昇天主日

ルカによる福音書24章44~53節

低く降り 高く昇る

先日、「ブータン 山の教室」という映画を観ました。主人公は、小学校の青年教師です。彼は、インターネット環境が整っている都会に暮らし、教師の仕事にはうんざりしていて、一日でも早く教師を辞めて、ブータンを飛び出してオーストラリアに移住することを夢見ています。そんな中、彼は標高4800メートルの僻地の小さな小さな小学校に派遣されます。八日間もの長い道のりを経てたどり着くところです。一日目はバスで、その後の七日間は山歩きです。インターネットも通じません。彼を案内するために村から三人の人が来て、夜はテントで眠り、ひたすら登り続けて何とかその村に辿りつきます。

標高4800メートルで暮らす人々の生活。牛も人も大自然もみんな家族です。標高がそれだけ高いのですから、生きるための資源は限られています。早い秋から遅い春までは雪に覆われた生活です。人々の生活はとても質素ですが、とても豊かです。その中で、彼は変えられていきます。人々の優しさや親切な振る舞い、子どもたちの純粋さ、与えられた賜物を恥じることも怠ることもなく大胆に分かち合う人々との出会いのなかで 変えられるのです。都会にいたときは、常にスマホから与えられる情報に意識が向いていました。しかし、自分の中の深いところに渇きがあったことを知り、その渇きが満たされることを通して人は幸せを手に入れるということに気づくようになります。

今日は昇天主日ですが、この日にこの映画のことを皆さまと分かち合うことができて嬉しいです。       昇天なさるイエスさまは弟子たちにこう述べられました。                              「高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)。               高い所からの力とは、イエスさまから送られる聖霊のことです。それを待ちなさいと言っておられるのです。

今、待つように言われる弟子たちには十分な喜びがありました。イエスさまが自分たちから離れていってしまうのに、もう悲しくありません。恐れもありません。彼らは喜びに満たされています。部屋の中に閉じこもっていた以前とは全く違う姿です。ですから、待たなくても、この調子でどこまでも出かけて行って、イエスさまの死と復活の証人になって、福音を分かち合う働きができそうです。

しかし、今ではなく、待ちなさい。そのときが来るまで待ちなさいと、イエスさまはおっしゃるのでした。そして弟子たちはイエスさまの言葉に従って待ちます。

待つということの大切さをいつも強調してお話させていただいています。待つことは信仰生活の中で不可欠なことだからです。キリストを受け入れて、キリストに従った人は誰も、待つことを知った人でした。母マリアをはじめ、イエスさまのお生まれに関わる人たちはみんな、それぞれ置かれた状況の中で待つという大切な時間を過ごしています。

イエスさまの昇天を見上げている弟子たち。喜びに満たされている弟子たちにとって待つということは、都に留まって祈りに専念することでした。待つということは、祈るということです。待つために、インターネットをしながら、テレビを見ながら、買い物をしながら、おしゃべりをしながら… 何か気を散らしながら待つのではありません。静かに、じっとして一つの場所に留まり、神さまに心を開いて祈り続けるということなのです。そのような姿は、もっとも低いところに留まる、聖なる行為と思います。なぜなら、祈るときにのみ人は、自分の中に神さまのことを大きくすることができるからです。そして、神さまのことを大きくするときにのみ、人は、どんな人の前でも、どんな仕事や出来事の前でも、それらと謙虚に向かい合うことができるからです。聖なる姿、それは謙虚な姿です。

イエスさまはそうなさいました。イエスさまは、神さまのことを父と呼び、神さまがご自分にすべてを委ねてくださったことをみんなの前で明らかに話されました。しかし、イエスさまは、与えられたものに執着して自慢するようなことはなさいません。病んでいる人や貧しい人々、さ迷う人々や虐げられている人々を前にして、とても謙虚であられました。病んでいる人は癒し、魂が渇いている人の渇きを満たし、虐げられている人の友となって、相手の必要にひたすら向かい合うだけでした。イエスさまの中にはいつも神さまが大きいからです。

そのイエスさまに聞き従う私たちはどうでしょうか。

私は、少しでも何かできるようになると、それを自慢したくなります。自分の見解や知識を前面に出して人と向かいあうときがたくさんあります。逆に、何か欠けていると気づくときには不安になり、持っている人をうらやましがったりします。神さまよりも  自分のことが私の中で大きくなっているからです。全く謙虚ではありません。

以前、神さまよりも自分のことを大きくしていた弟子たちは、今は変えられて、イエスさまがそうであったように、低い場所、祈りの場所に留まることを、喜びをもって選び取っています。自分の思いを遥かに超えて与えられる約束を信じて留まっているのです。約束された聖霊の賜物はこうして低い場所に留まる人にこそ注がれます。

先ほどの映画の話ですが、私の心を捉えた一つのシーンがありました。村人の一人の若い女性の話です。彼女は毎日高い所にのぼって山々に向かって歌を歌います。 村の学校で子どもたちを教えるようになった主人公はその美しい歌を聞いて、歌声がするところに行きます。そこで彼女に尋ねます。「誰も聞いてくれる人がいないのに、どうして毎日ここで歌うの?」。すると彼女は「鳥は誰か聞いてくれる人がいるから歌っているのではないでしょう。または、自分の歌が上手か下手か誰かに言われるかもしれないという心配をもって歌わないでしょう。 それと同じです。私はただ歌う。山々や木々、大自然を前にして歌う。それがすべてです」と。

この彼女の言葉を聞きながら、気がつきました。上からの賜物は決して人を傲慢にさせないということです。彼女は山の上の高い所で歌っていますが、実は最も低いところにいます。聞いて拍手をしてくれる人がいるかどうかではなく、歌を歌うこと、それでいいという謙虚さです。

低き所に留まる人だけが、高い所にのぼることができます。イエスさまは徹底して低いところに降りられました。そこで他者の罪を担い、唾を吐かれて鞭打たれ、十字架の上で殺されました。もっとも低い場所です。その低い所に降りられた方が、神さまによって、死者の中から復活させられ、高い所に昇られたのです。

そして、今日、天に、神さまがおられるところに昇られます。その距離は、人間のものさしでは、地上から天という圧倒的な距離です。しかし、神さまのまなざしの中では圧倒的な近さです。イエスさまは約束をしてくださっています。約束したものをあなたがたに送るから都に留まっていなさいと。つまり、どんなに高い所に昇って行かれても、決して私たちを離れず、約束した聖霊を送られるところにおられるのです。

私たちの教会には暦があります。暦にそって私たちの信仰の日々は導かれてゆきます。暦の中で来週は聖霊降臨祭を迎えます。それまでの一週間の間、弟子たちが留まっているそこに私たちも留まりましょう。そしてイエスさまが約束してくださった聖霊をいただきましょう。聖霊がイエスさまと私たちを結ぶのです。信仰の歩みの中でこれ以上に大切なものはありません。それをいただくときに私たちは、自分に与えられた賜物を素直に発揮して、イエスさまの証人となって福音を分かち合うために、自分から出かけていくようになるのです。