主の洗礼日説教

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マルコによる福音書1章4~11節

水の中から上がる

洗礼式には全身を水に沈める浸礼と、頭に水を注ぐ適礼があります。私は韓国で洗礼を受けたので、夏休みに、大勢の青年たちと大きなプールに連れていかれ、そこで全身を水の中に浸される、浸礼を受けました。プールの周りで聖歌隊が賛美を歌っている中、水の中から引き上げられた時には、まるで天国にいるような思いでした。

今日、イエスさまが、ヨハネから洗礼を受けて、水の中から引き上げられたことを通して、福音を分かち合いたいと思いますが、まず、今日は主の洗礼日ですので、この日の起源について分かち合いたいと思います。

主の洗礼日の起源は、三つのことを一緒に記念したことに始まったと言われます。それは、キリストの誕生とキリストの洗礼、そしてカナの婚礼です。そしてその後、西方教会では、東方の学者たちの到来も合わせて祝うようになりました。このように、ずっと古い昔から東方や西方の教会の中で、冬季のもっとも大きな祭日として主の洗礼は顕現日に守られていました。そして四世紀以来、西方教会ではキリストの誕生がここから分離され、12月25日に祝われるようになりました。

キリストの誕生とキリストの洗礼とは深くつながり、そこには大きな意味があります。大きな意味とは、受肉、すなわちキリストが人間として生まれたことにあります。キリストが誰も手の届かないところにおられる超人的な神の子として祭り上げられるのではなく、人の体内に宿り、私たちと同じく血と肉をもった真の人間としてお生まれになったということを表しています。なぜなら、その場合にのみキリストは神の子になり、そして私たちを助けることも出来るからです。

そうであるからこそ、キリストの洗礼は私たちにとって意味があるのです。キリストは罪のない方として悔い改めて洗礼を受ける必要のない方ですが、その方が、罪人の群れに並んでパプテスマのヨハネから洗礼を受けられたのです。つまり、ご自分を罪人から切り離そうとしなかったということです。

このキリストの洗礼の中に私たちの洗礼の意味があります。つまり、私たちが洗礼を受けるということは、キリストがそうであったように、私に与えられた賜物を私のためのものとせず、他者と分かち合って生きることを公に表すこと、それによってキリストの道を歩むという決断、それが私たちの洗礼に込められた意味なのです。

しかし、どこかで私たちは、自分が救われるために洗礼を受けたという理解に生きている面がないでしょうか。

当時の、ファリサイ派の人々は、そのような理解の中で、自分の救いのために洗礼の列に並んでいました。娼婦や徴税人や罪人と言われるような底辺の人たちと自分は異なる者と位置づけ、自分と彼らを切り離すために洗礼を受けていたのです。私自身もそういう理解の中で洗礼を受けていたのかもしれません。

今日、イエスさまが洗礼を受けるために水の中に身を沈めてくださいました。その行為、それは、聖なる体をこの世の中に沈め、私たちにつなげ、私たちの弱さの中にご自分を沈めてくださったという尊い行為。聖なる姿なのです。

しかし、イエスさまはその水の中から上がられます。水の中にそのまま沈んでおられるのではなく、水の中から上がられました。

それは、イエスさまが水の上を歩かれる奇跡と同じことです。

マタイによる福音書14章には、湖の上の弟子たちが逆風に悩んでいた時に、イエスさまが湖上の上を歩いて弟子たちの所に来られる場面があります。弟子たちの中でペトロが、「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と頼んで湖上を歩き始めますが、強い風に気づいてすぐ水の中におぼれてしまいます(マタイ14:22~33)。

これが私たちの状況です。イエスさまがなさったように私も歩みたいと思って試みるけれども、恐れにとらわれ、周りの状況に気が取られて、すぐおぼれてしまうのです。福音を聞いて心を新たにしたと思って家に帰っても、自分の思いとは異なる状況に出会うとすぐ怒ったり嘆いたりしてしまうわけです。外の状況によってすぐこの世の中へ沈んでゆくのが私たちです。洗礼を受けて新しく生まれキリストの道を歩みますと告白しても、依然として今もこの世の価値観の海の中におぼれながら生きる者なのです。

その私たちを導くために、イエスさまは、水の中から上がられました。世の中にとどまりながら、だからこそ、そこでおぼれている私たちを水の上へと助け出してくださるのです。

ですから、パプテスマのヨハネは、イエスさまのことを、「聖霊によって洗礼を授ける方」と名付けています。イエスさまは、聖霊をまとっておられる方であるということ。ご自分を罪人の私たちに宿らせ、与え続け、弱さという泥のような罪人のただ中にいてくださりながら、その聖性を決して失わない方。真の神であり、真の人間でおられる主イエス・キリスト。

この方の洗礼に私たちは預かっています。洗礼を受けたからといって私自身が義人になるのではないのです。私たちは、キリストのようにただ他者とつながった、他者に奉仕するキリストの道を歩こうと努力する者なのです。もちろん、毎日、毎瞬間失敗します。それでも、また新しいこの年、もう一度新しい始まりを生きるのです。

ある雑誌で読んだ実話を一つご紹介したいと思います。80年ほど前の話です。サンフランシスコに橋をかける工事現場で起きたことだそうです。海の上に橋を建てるための工事は、海から高いところで工事をしなければならない仕事ですから、仕事の最中海に落ちて亡くなる事故が相次いで起きたそうです。いつ海に落ちて死ぬかわからないという恐怖にとらわれながら仕事をしていますから、ますます事故は増えたのです。

工事を受け持っていた建設会社は、相次ぐ事故に悩んだ末、高いお金をかけて、高いところから落ちても海に溺れないように、橋の下の方に網をかけました。その日から、落下事故は一件も起きなかったそうです。そして、むしろ、工事は今までより早く進み、会社側にとっても利益をもたらすようになったそうです。橋の下の方にかけられている網が、仕事をしている人たちに、「たとえ、落ちても死なない!」という安心感をもたらしたのでした。

何か(誰か)が、私を守ってくれている、支えてくれている、見ていてくれているという安心感。信じられる心。恐れずに安心して大胆になれるという実話なのです。

自分を見守ってくれている大きな力が信じられるとういこと。これは、ある意味、見えない対象を信じることで、漠然なことのように思われるかも知れません。しかし、その大きな存在を信じるか信じないかによって、私たちの歩みは大きく変わってゆくのでしょう。

橋の高いところから落ちる危険を私たちは常に抱えています。高い所の橋とは、私たちの人生の歩みそのものです。そこでは事故に遭うかもしれない、病気になるかもしれない、愛する人と別れる辛さや悲しみがある。しかし、安心して委ねてもいい。そのために、海の上に設置された網のように、私たちが死の力に呑み込まれて暗闇の中をさ迷わないように、罪人の列に並んでキリストは洗礼を受けられたのです。そのようにして、私たちから離れることなく一緒にいてくださっています。

イエス・キリストの洗礼の中からのみ、私たち自身の洗礼の意味は見出すことができます。ですから、私たちは死んでもいいのです。永遠のいのちをもっておられる方が私の中に宿っておられるから私たちは死んでも死なないのです。私たちより先にみ許に逝かれた田坂さんはきっとそのことを証ししておられることでしょう。こうして、キリストの道を歩まれたキリスト者は、死んでもキリストを証しするのです。

 

祈ります。主よ、私たちの洗礼がキリストの道にいるとき光り輝くということ。どうか、望みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平安とをもってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。 父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

 

ユーチューブはこちらから ⇒https://youtu.be/l1yLA-7me_o