12月25日 主の降誕祭 説教

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ヨハネによる福音書1章1~14節

言の内に命があった

みなさん、クリスマスおめでとうございます。み子、救い主は、私たちのためにお生まれになりました。イエスさまのご降誕を心よりお祝い申し上げます。

「初めに言があった。… 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:1~5)。

ヨハネによる福音書は、「初めに」ということから始まります。このときの「初め」と言う言葉は、私たちが普段数えるような時間的なことを述べているのではありません。この「初め」は、この世の創造の始まりでもあり、今でもあり、いつでも、という意味での「初め」です。この「初め」は永遠のときの流れの始まりを述べているのです。

私たちにとって「初め」、それは、ふつう生まれたときを言います。ですから、歳を重ねるたびに、もう退職の時期だとか、高齢者、後期高齢者だとかと言って、どれだけ歳を取っているかを表します。

そして、私たちにとって、もう一つの「初め」がありますが、それは、洗礼を受けたときです。幼児洗礼を受けた人もいれば、死の間際に洗礼を受けられた方もいらっしゃいます。学生の時や中年の時、いろいろのタイミングの中で洗礼に導かれます。しかし、お母さんのお腹の中から生まれた時のようには、洗礼の歳を数えたりしません。きっとそこには、別の意味があるからだと思います。

今日は、イエスさまのお誕生をお祝いするクリスマスです。私たちは毎年クリスマスを迎えて、イエスさまの誕生をお祝いします。私たちの誕生日とは異なって、イエスさまの誕生日に、イエスさまが何歳になったのかを数えません。どうしてでしょうか。

そこに、ご降誕の神秘があります。それは、洗礼の神秘と同じと言えましょう。つまり、「永遠」、または「新しい」ということです。ですから、キリストのお生まれをお祝いする、さらには、人々を招いて一緒に救い主の誕生を喜ぶということは、生まれた方の神秘に触れ、そこから新しい始まりを生きるということなのです。そして、それによって私たちは、イエス・キリストの「初め」と「永遠」に触れるのです。それは、どんなときでも、たとえ、明日死を迎え、この世での命があと一日しかないと言われても、そこから新しい始まりを選び取るという、大いなる可能性に授かるということです。イエス・キリストのご降誕の神秘に触れ、無限の可能性を生きる者にされるということ。

しかし、私たちは、無からすべてを創造された(創造される)神さまに信頼をおいて生きているといいながらも、実際は、文明の恩恵にかなりの信頼をおいて生きています。つまり、目に見えて、暮らしを豊かにしてくれるものに多くの信頼をおいています。

インターネットの登場によって、世界はどんどん便利になりました。新型コロナ禍の中でインターネットはとても役に立ちました。しかし、新型コロナ禍の中で、生きることがつらくなった人たちが、便利になったインターネットを通して、自死を考える他の人々とつながり、みずからの命を絶つことも増えました。特に若者の自死が増えています。

このように述べるとインターネットを批判しているように聞こえますが、私たちの生活や仕事はインターネットの恩恵にあずかっていることも確かです。ただ、ネットでつながる人間関係、相手の正体がわからないまま生じる関係には、常に注意深くある必要があります。そこには破壊的な力も潜んでいるからです。

顔と顔を合わせ、体と体が同じ空間にいてこそ、そこで育まれる豊かな関係性があることを忘れてはなりません。その人の様子や表情を観察しながら私たちは出会い、関係は作られてゆくのです。その中で言葉に表さない相手の中に、何か悩み事があるのかもしれない、何か嬉しいことがあるのかもしれないということをも知るようになります。

そのためには、体を動かす必要があります。人と会うために出かけなければならないからです。とくに人のために体を動かして他者のために尽くすとき、私たちの内に生きているという実感がわいてきます。他者の必要に気づくようになると、生きることが嬉しくり、命が輝くのです。人間はそのように造られているからです。

体を動かすこと。イエス・キリストは、生まれてすぐ、エジプトに逃げ、そこにしばらく滞在なさいました。その後またガリラヤの方へ帰り、そのガリラヤからエルサレムまで、死ぬときまで歩き続けます。一人で静かに一つの場所に留まる時は、祈る時だけです。どんな時も、イエスさまの周りには人々がいました。病んでいる人、貧しい人、ひとりぼっちの人、罪人と言われて虐げられている人たちです。この人たちに仕えるイエスさまは、いつも体を動かしておられます。

イエスさまを産んだマリアとヨセフも、同じです。イエスと一緒にいることは、殺されるかもしれないという命の危機にも遭いながら、はらはら、ときどきの毎日です。最後にはイエスさまが十字架刑に処せられてゆくのを見届けなければならない、心が裂かれる思いを抱かなければなりませんでした。

しかし、その道が真の命の道です。新しい始まりの道です。イエスさまに出会って日常がすっかり変わり、ガリラヤからエルサレムまでずっと一緒に歩き続けた人たちは、イエスさまの死の悲しみからご復活の道を進み、命の輝きを目撃したのです。決して死が終わりではないことを、イエス・キリストの道を歩んだ人たちは知ったのでした。初めと永遠という神秘に触れたのです。

この尊い道が、今日、イエスさまのご降誕のお祝いを通して私たちに示されました。私たちは、もう一度立ち止って、足元を確かめたいのです。私は今どこに立っているのだろう。何につかまり、何に信頼をおいているのだろう。

イエス・キリストの道を歩くようにされているということ、その初めと永遠に触れることがゆるされているということ。それがどんなに光栄なことなのかわかりません。歳をとって、よろよろの年寄りになっても、常に私たちは若いのです。その新しさを生きるように、招かれているのです。

さあ、今日から新しい始まりです。イエス・キリストの誕生の神秘に触れることができました。この世の平和の働き人となって、生きる意味を失っている人、寂しい人、様々な違いによって虐げられている人々に、イエス・キリストの光を照らす道を歩き続けましょう。

みなさん、本当にイエス・キリストのご降誕、おめでとうございます。

望みの神が信仰からくるあらゆる喜びと平和とをもってあなたがたを満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

 

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