御心が留まるところ

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ルカによる福音書1章46~55節

教会の暦の中で今日は、喜びの主日、またはマリアの主日として守られてきました。聖壇の色や牧師のストールがピンク色(薔薇色)になり、アドベントクランツにもピンク色の蝋燭を灯します。そして、讃美唱は、先ほど交読しましたマリアの賛歌が選ばれます。

今日は、せっかくですのでこのマリアの賛歌から福音を分かち合いたいと思います。

マリアの賛歌は、マリアがイエスさまを身ごもったことが分かったときに歌われた歌です。マリアはヨセフと婚約をしていました。しかし、結婚する前に身ごもってしまい、結婚相手のヨセフをはじめ、周りの人々を驚かせます。マリア自身も天使ガブリエルからお告げを受けたときに、どうしてそんなことがあり得ましょうかと、驚きました。

マリアは、ナザレと言う田舎の小さな村で生まれ育ちました。この時の年齢は13~16歳と言われます。当時の結婚年齢期です。小さな村ですから、人々はふつう助け合いますが、いったんスキャンダルなことが起きると、それは限りない排他性を生み出します。その家の今晩のおかずまでみんなに知られるような狭いところです。まだ結婚もしてない少女のお腹が大きくなってくるという事実を、村人たちはどのように受け止めるのでしょうか。私が村人だったらどうすることでしょう。どんなに神さまのご意志で、聖霊によって身ごもったと説明されたところで、父親がだれだかわからない子を身ごもり、律法を犯したと不浄な女だというレッテルをはらないでしょうか。

マリア自身は自分の身に起きたことを、勇気をだして引き受けました。神さまが自分の人生に関与しておられることに気づいたからです。そして、これから起こるであろうすべてのことを、神さまが必ず導いてくださると、信頼のうちに委ねることができました。

今日のマリアの賛歌は、その決断の後に歌われた、マリアの心の深いところからの告白であり、神への信頼の現れです。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」(48節)と。

マリアは、律法に訴えられて石打ち刑にされるかもしれないのに、感謝しています。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と、神さまに感動して、賛美しています。さらには、この世の富、権力を誇る支配者たちに対して、強烈で、手加減するところのない厳しさをも表して歌っています。この賛歌はこの世の闇に向かって光の神を証しする、とても情熱的な歌です。

ナザレという田舎で育った小さな少女の、どこからこんな強い力が出てくるのでしょうか。どうすればこんなにも内側が強くなれるのでしょうか?

それは、マリアが今や単なる傍観者ではなくなったからです。彼女が行動する者、神を生きる者に変ったからです。つまり、やがてどこかで生まれるであろう救い主を、ぼっと待っているのではなく、自ら救い主を宿し、生み出すことを選び取ることができたからです。それは、私の人生だから私の描くまま生きるのではなく、神さまに選ばれていることを信頼し、その信頼のゆえに人生を献げるという選択なのです。

神さまの働きに用いられるということは、このマリアのようになることだと思うのです。

たくさん学んで、頭が良くて、能力があるから優れた弟子として用いられるのではなく、神学的に教会の教理を知っているから用いられるのでもない。人間的な美徳や偉大な信仰によって選ばれるのでもありません。

むしろその逆で、たとえ人々からさげすまれ、卑しめられた者であっても、無名で、弱くて、貧しくて、上手に生きるための術を悟っていなくても、いいえ、だからこそ、神さまはご自分の偉大な業を成し遂げるための器として、卑しい者を選び取ってくださっているということ。

使徒パウロもこのように述べています。「神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(1コリント1:27~28)。

つまり、神さまは人間の卑しさを恥と思わず、不完全な人間と一つになることを通してご自分を表そうとなさっておられると言うことです。まさか奇跡が起りそうもないところで、奇跡が起こるようになります。最大の奇跡は、飼い葉おけの救い主イエスさまです。

私たちが失われたと嘆くところで、神さまは見出したと喜ばれ、私たちが裁かれたと恐れるところで、神さまは救ったと励まし、私たちが否と言うところで、神さまはイエスと、はっきりと宣言してくださるのです。人間が投げやりになり、互いに傲慢になり、そして関係が切り裂かれていこうとするところで、神さまは慈しみ深い眼差しで一人一人を包んでくださるということ。

神さまは、マリアを救い主が宿る器として選ばれました。それを通して神さまは、貧しい人々のただ中に生きようと決められたのです。病のゆえに自由を失い、権力の下で希望を失っている人々に自由と希望をもたらし、束縛の中に生きる人の群のただ中に、救い主は生まれてくださったのです。

私たちは、この神さまを、この神さまがなさることを伝えたいのです。マリアがそうであったように、私たちも、卑しい自分を恥と思わず、その自分を神さまに委ねることで、救い主を生み出す器になりたいのです。

私たち一人一人の中に救い主が宿るということは奇跡です。当たり前のことではありません。クリスマスを祝うと言うことは、毎年クリスマスを祝っているから今年もクリスマスがやってきたと思うような、適当なことではないのです。毎年クリスマスを祝うということは、毎年、神の奇跡が私の中に起きていることなのです。

その奇跡を体験していれば、どうやってそれを伝えずにいられるでしょか。どうやって歌わずにいられるでしょうか。光の中に包まれている幸せを、どうやって独り占めできるでしょうか。コロナ禍の中に苦しむ一人一人の暗い心に、重い病の中で絶望に陥っている一人一人に、家庭内不和や虐待にあっている子どもたちに、救い主が生まれること、その方はあなたの味方であること、その方はあなたとずっと一緒にいてくださるということを、確信をもって伝えずにはいられないと思うのです。

私たちは、このクリスマスに、ただの傍観者にとどまることはできません。神さまが、誰より私の、最も卑しいところに目を留め、その弱さの中に宿りたいと、私たちを器として選び取ってくださったからです。あなたを通して聖なる業を起こしたいと、男女を問わず私たち一人一人が選ばれているからです。

あの小さな少女のマリアが、自分の人生に積極的に関わってこられた神さまの働きを受け入れたように、私たちも神さまの働きを受け入れましょう。救い主が、あの貧しい家畜小屋で、マリアを通してお生まれになるという出来事の中に、積極的に参与していきたいのです。神さまに信頼され、信じられた者として、神さまが目を留めておられる低き器となって、福音の喜びを生み出す歩み方をしていきたいのです。

自分に何かできる力があるから私たちは招かれたのではありません。そうではなく、一方的な神さまの慈しみ深い愛のゆえに招かれたのです。こんな私に神さまが信頼を置かれたことを心から信じ、賛美する私たちなのです。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださった」と歌うマリアの賛歌を私の歌とし、これからの歩みを神さまが導いてくださると信じて、ベツレヘムへの道を進みましょう。

私たち一人一人の真実な願いが御心のままに導かれますように祈ります。

 

ユーチューブはこちらから ⇒ https://youtu.be/bteNzhNknj0