流れのほとりに植えられた木

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いまから503年前の1517年、マルティン・ルターは、ヴィッテンベルク教会の扉に、95か条からなる質問状を張り出しました。そこから、中世ヨーロッパのローマ・カトリック教会内に宗教改革運動が始まり、一つであった教会は、引き裂かれ、分裂と争いを続けながら、カトリック対プロテスタントという、不和の壁が築かれるようになりました。そして、プロテスタントの中には、数え切れないほど多くの教派が生み出されてきました。

宗教改革の最も中心的な人物となったマルチン・ルターの精神を基にして、私たちのルーテル教会は立てられました。ですから、この時期を、ただ、宗教改革を祝って、お祭りごととして終わらせるのではなく、それによって引き裂かれた教会や教派間の争い、築かれた壁を崩すという責任を、私たちのルーテル教会は担わなければなりません。どのようにして、その責任を果たすことができるでしょうか。

 

4年前、宗教改革500年を記念するための一つの大きなイベントが開催されました。2016年10月31日に、世界ルーテル連盟の発祥の地であるスウェーデンのルンドで、カトリックの教皇フランシスコと世界ルーテル連盟議長のユナン主教の共同司式で記念の礼拝がささげられました。長い間、不和の中で関係を断絶していたカトリック教会とルーテル教会の和解が実現したのです。それこそ、教会のもっとも美しい姿でした。切り裂かれていたものが手を握り合い、互いの大切さを確認し、一緒に新たに歩みだしたのです。この世に、これ以上に美しい姿があるでしょうか。

しかし、それですべてが終わったのではありません。具体的な関係づくりはこれからです。私たちの教会が和解の手を積極的に差し伸べていく。それは、カトリック教会に対してのみならず、分裂し、大きな壁を置かれるようになった他のプロテスタント教会に対しても、互いの間に置かれている教理の違い、福音理解の違いを超えて、キリストにあって一つになる、一致を目指しての働きに積極的に遣わされてゆくのです。そのためにも、一つの教会の仲間として招かれている私たち自身が、必然的に一つにならなければなりません。

さて、その私たちに、本日与えられているみ言葉は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、これと同じく隣人を自分のように愛しなさい」です。

このことは、ファリサイ派の中の律法の専門家がイエスを試そうとして、「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」と尋ねたことへの、イエスのお返事です。ファリサイ派の中で律法を専門に研究している人たち。彼らはとても多くの律法を列挙して、それを人々に守らせていました。

ここで、皆さんに質問です。いったい、いくつの律法があったと思いますか。

613項目の守るべき律法があります。そのうちの、248項目が「~しなさい、~しなければならない」という積極的な勧めで、365項目が「~してはならない」という禁止命令です。それだけ多くあるために、どちらを大切にするべきかという問題が常にありました。たとえば、マタイによる福音書には、「父と母を敬う」より「供え物を献げる」とか、「誓いを果たす」という戒めを重んじるように教えていたために、親不孝や貪欲に走るようなことがあったと書かれています(マタイ15章)。

イエスは、これだけある律法を、たった二つの項目にまとめたのでした。第一は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」。第二は、「隣人を自分のように愛しなさい」。しかし、この二つは別々ではなく、どちらも同じように大切であると。私たちの中にも数えきれないほどの律法があります。

親から受け継いだものもあれば、学校や社会、会社、人間関係の中から生まれた律法もあります。また自分自身が作って守るべきものとして決めているものもたくさんあります。そして私たちはそれらの律法を基に聖書を読もうとしますから、正しい読み方ができなくなっていたりもします。

このように私たちは、あまりにもたくさんの個人的教理を作っています。そこからは、決して他者と仲良く過ごすことはできないのに、自ら進んで不和と争いの道を作っているのです。

その私たちにとって、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』、これと同じく『隣人を自分のように愛しなさい』」とは、どう響くのでしょうか。

秋になり、寒くなりました。段々と秋が短くなり、冬が長くなります。そして、今迎えたこの秋の美しさは、あまりにも美しく切なく、コロナ禍だからといって外へ出かけない、見ないですますのはもったいないと思います。自然界はコロナ禍の中でもそれぞれがもつ独特の色をそのまま出し、山は紅葉できれいに彩られています。是非、近くの公園にでも出かけて、葉っぱがすべて落ちてしまう前の木々の美しさに触れられたらと思います。

秋になると木の葉が落ちる現象は、科学的にも証明されていることですが、昼と夜の気温の差が激しくなり、その気温の差が限界になってきたときに、木は、葉っぱと枝の間に細胞壁を立てて、葉っぱを自分から分離させていくのだそうです。

その分離の過程の中で起きる現象が紅葉だそうです。段々と細胞が失われて、木から切り離されつつある途上の現象です。きれいに彩る紅葉は、木々が冬を越すための手段でもあったのです。自分を守るために、いらないものを思い切り切り捨てる姿が美しく彩られる、素敵な時間です。

これは、木が健康である場合ですが、死にかけたような弱い木を生かす方法はまた別にあります。つまり、死にかけている木を生かすもっともよい方法は、思い切って枝を切り取ることだそうです。それも、三分の一ほどは切ってしまった方がいいそうです。そうでなければ、根から上げられた水分が要らないところまで分けられてしまい、体全体に行きわたることができなくなって、痩せて死んでしまうのだそうです。

面白いと思いながら、動物の生き方についても考えてみました。動物は、傷を負った時には、体の傷が治る時まで何も食べないで、ひそかに隠れています。このような自然界の生きる知恵というものを、私たちは失ってしまっているのかもしれません。

どちらかといえば、私たち人間は、具合が悪くなると、体のためにもっといいものをいただこうとします。健康な場合も、幸せになるためにもっとたくさんのものを得て、所有しようとするのです。自然界と逆です。

今、コロナ禍の中で、私たちは、この自然界の知恵から学びたいのです。苦しい時には、その場に立ち止って、その時まで背負っていた持ち物を出来るだけ手放して、少なくしていくのです。それでもまだ苦しかったら、木々が三分の一くらいの枝を切り落されるように、もっと多く手放してみるのです。苦しみがなくなって軽くなるまで、人のせいにしたり、自分の過去を裁いたりするのではなくて、その場にじっととどまってみる。その時に、渇き果てていた魂が甦ってくることに気づくようになるでしょう。

そして、その時に、自分の中の数えきれない律法が一つにまとめられて、私の隣人としていつも隣におられた方と一つにされたことに気づくことでしょう。あまりに多くのものを携えてヘトヘトになっている私に静かに寄り添い、その私をまるきり背負っておられたキリストと一つになる、そんな自分の美しい姿に出会うことでしょう。この隣人と一致してこそ、私たちは、コロナ禍の中に置かれても、季節ごとの実りをもたらす、自然界の大胆な生き方を生きるようになります。

そして、キリストと一つになってのみ、私たちは、教会間、教派間、宗派間の壁を乗り越えて、本当の意味での福音を分かち合う美しい交わりを生きることができるでしょう。私たちは、このキリストのゆえに、常に流れのほとりに植えられた木のように、多くの可能性に包まれている幸いな者です。

望みの神が信仰から来るあらゆる喜びと平和とをあなたがたに満たし、聖霊の力によってあなたがたを望みに溢れさせてくださるように。父と子と聖霊のみ名によって。アーメン。

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