来るよ、大きなプレゼント

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来るよ、大きなプレゼント

復活節第6主日 2020年5月17日(日)
ヨハネによる福音書14章15~21節

来るよ、大きなプレゼント

教会の暦の復活節が今週で終わります。来週は主の昇天を祝い、次はペンテコステ。暦はどんどん先に進みます。コロナ禍の中でも神の国の宣教は先へ、新しい方へ進みます。しばらくの間、教会に集まって礼拝することは許されていませんが、皆さんが、各々置かれたところで、進み行く神の国の新しい営みに生かされますように祈ります。

本日の福音書の中でイエスさまは、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(18節)と、約束しておられます。

みなしごは、親のいない子どものことです。親は、生まれた子どもを、飢えや危険から守り、要らないところと必要なところを識別しながら育て、子どもが独り立ちできるまで養育する責任をもちます。そして、独り立ちできた大人になっても、悲しみや苦しみに襲われるときには、そこにいるだけで力になるのが親です。みなしごとは、その親がいない子のこと。ですから、病気や事故、災害などで親を失った子どもたちが、どんなに大変な状況に置かれていることか、経験したことのない人には想像を絶することでしょう。

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」とおっしゃるイエスさま。それは、あなたに対して親としての役割を私が果たそう、喜んで担おう。いいえ、親にさせて欲しいと述べているようにさえ聞こえます。弟子たちが頼んでいるのではなく、御自ら、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」とおっしゃっておられるのですから、それだけイエスさまは、弱さだらけの人とつながって、支えることが嬉しいようです。

しかし、この言葉は、約束という形で述べられました。この言葉を信じるか信じないかは、聞いた人の責任になります。そのことに関して、イエスさまはこうおっしゃっておられます。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」(15節)と。

イエスさまの掟とは何でしょうか。
それは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう」(ヨハネ13:34-35)。これが、イエスさまが最後に弟子たちに与えられた、新しい掟でした

互いに愛するように!イエスさまは私を愛し、わたしの過ちや不誠実さを断罪することなく、ご自分の愛の中に包んで、抱きしめて、理解し、受け入れて、新しく歩きだすようにと力を注いでくださいました。そしてあなたも同じようにしなさいと私に告げられるのです。この掟を、一人ひとりが日常の中で実践して生きるときに、イエスさまの約束の言葉を信じることができるようになるのです。

この世の合理主義的な考え方では、本当に戻って来るかどうか疑わしいと切り捨ててしまうかもしれないただの言葉です。イエスさまの生まれについても、死についても、この世は理解できません。乙女が身ごもる?死者が復活する?これを信じるのはばかばかしいというのがこの世です。

しかし、私たちには、それが信じられるのです。なぜ信じられるのでしょうか。それは、私たちの中に宿っている神さまの心に気づいているからではないでしょうか。本当の意味での愛を知る心、親から愛された子どもの心、暖かい心が私たちの深いところに宿っている。その事実を私たちは知っているのです。親が子どもに対して、特に多くの弱さを抱えている子どもに対してより温かい心で関わるように、神さまが一緒におられることに気付く人の心は、優しく、温かいのです。そしてこの優しさと温かさの中で、この世が信じることのできないことが信じられるようになるのです。

しかし、その信仰は完璧ではありません。不安があります。恐れも多くあります。

私ごとですが、子どもを育てながら、何度か、どうしたらいいのかわからないときがありました。息子が中学一年生の終わりのときです。3・11の東日本大震災が起きたときで、埼玉県の学校も一週間ほど休みになりました。すると、学校が休みになったことが嬉しくて、息子は友達と毎日楽しく遊んでいるのです。それで、「同じ年頃の生徒たちが大勢被災しているときに、少し自粛したらどうか」と私が言うと、息子は反発して友達の家に行ったきり帰ってこないのです。

子どもの家出が初めてのことだったし、どうしたらいいかわからなくて粂井先生に電話をしました。すると先生はこう話されました。「ぶれる時期にぶれることができるというのは悪いことではない。ぶれたくてもぶれることができない子どももいる。ぶれることができるというのは、ぶれない人がそばにいるからです。安心してぶれているのだから、そのままでいいんじゃないの?」と。この言葉をお聞きして、とてもほっとして息子の帰りを待つことができました。粂井先生、ありがとうと心から感じました。

親であっても、心の中は小さなことに揺れ動き、不安になったり恐れたり、その繰り返しの日々の中で子育てをしていましたから、自分がぶれない人という認識はまったくありませんでした。しかし、粂井先生の話を伺って、子どものぶれる姿は私を親として認めている姿なのだと知り、とても嬉しい気持ちになりました。

今でも、不安があり、小さなことを恐れ、揺れ動いています。そしてそれは、私だけでありません。私の親もその上の親も、私たちみんな、不完全なものなのです。土の器ですから、環境の影響をたくさん受けてしまうものなのです。

大勢の人の命がコロナの犠牲になりました。そして、経済成長を優先してきた私たちをコロナは襲ったように思います。多くの人が、将来を描けなくなりました。どうしたらいいかわからない。まるで親を失った子どものように、これからの生き方がわからなくなりました。今の私たちの社会は、みなしごが溢れる社会に変ってしまいました。

経済成長にばかり関心がおかれるようになると、需要に合わない過剰生産が促され、それによって環境が破壊されてしまいます。人間とモノとの関係が逆転して、人間よりもモノが大切にされる社会になります。そして、貧富の差が広がり、不平等や失業のような深刻な問題が表れるようになります。このようなこの世の営みは、人間とモノ、人間と人間、人間と自然界が和解して調和し合い、平和に共存することを勧める聖書の掟とは反対の世界です。

このような世の中に教会は建てられています。私たち一人ひとりもこのような世の中に生きる者です。ですから、この世の影響をたくさん受けています。立派な建物、権威主義、西洋的文化を装うキリスト者の豊かそうな生活、聖書に対する知的探求、教会に集まる人数の多さだけに関心を向ける成功主義的信仰形成。誘惑です。さらには、他の宗派や教派と排他的に対立し、競争相手として捉え、争い合ってきました。それによって、若い世代が教会に背を向けるようになり、教会嫌いが増え、教会離れが世界的に進んでいます。

教会のそのあり方が問われていると思います。この世の考え方に倣うとき、教会も孤児になって、将来が不安定になりビジョンを描き難しくなります。今、世界を襲っているコロナは、あまりにも私たちの置かれた状況を良く知っていて、私たちを新しい道へと促していると思います。
つまり、この世の中で、イエスさまの愛に生きるのか、あるいはこの世の富を求めつづけるのかという問いかけが投げられていると思うのです。

私たちは、不完全であることを知るからこそ、イエスさまの愛に生きる道を選択し、その道を歩み続けたいのです。それは、イエスさまの愛を実践するために、がんばって、努力しよう、成果を出そうというのではありません。
そうではなく、神秘とも言える神さまの愛の中に私をそのままゆだねて、神さまと一つになるのです。イエスさまの十字架の愛、赦しと和解、恵みの神秘を生きることです。その神秘に預かる方法は、私たちの中に内在しておられる聖霊が教えてくださいます。

私たち自身の中にそれだけの広い宇宙が広がっているのです。どれだけ深くて静かな世界が広がっているか、聖霊は教えてくださいます。
神さまを親として、霊的に神さまに繋がっている私たちです。親は、特に、私たちの弱いところを慈しんでおられます。そして、私たちが弱さを大切にして、その弱さからこそ、三十倍、六十倍、百倍の実りを結ぶように導いてくださいます。この実りは、私たちの想像を遥かに超えるプレゼントです。このとんでもないこのプレゼントを感謝していただきたい。そういう信仰の暦を新たに生きてゆきましょう。