キリストの心(教会だより2025年11月号)
2025.12.9
「犠牲」マタイ10章38、39節
自分が生きるために他者を犠牲にするか、他者を生かすために自分が犠牲になるか。わたしたちはそのどちらで生きるのかが問われています。
とかくわたしたちは自分を守ろうとする結果、自分を守るために他の人を犠牲にする方を選んでしまうことが多々あることを認めない訳にはいかないでしょう。
特に、何かを人のせいにするという言い訳などは、その最たるものでしょう。自分を正当化するために他の人を悪者にしてしまうというやり方です。他愛のないことのようですが、案外自分の姿勢、在り方の根本が現れているということではないでしょうか。
「自分を得ようとする人はそれを失ってしまう」と主は言われます。確かに、自分で自分を守ろうとして、他の人を犠牲にしてしまい、自らの滅びを買い取っています。
わたしたちの主イエス様は、わたしたちを生かすためにご自分が犠牲になる道をひたすら歩まれました。遂には十字架にかけられ、ご自分が犠牲になることで人を生かす道を歩まれました。それ程までに、わたしたちを愛してくださっている主の姿が現わされています。
そして、主イエス様はわたしたちにもその道を歩むようにと命じておられます。「自分の十字架を負ってわたしに従いなさい。」自分のために人を犠牲にしてきたわたしたちが真に悔い改めて、他の人が生きられるために責任を担う歩みへと踏み出す歩みが示されています。
自分を捨てきれず、自分にしがみついてしまうわたしたちですが、そこのところから、主イエス様の憐れみに頼み、十字架の主にしがみつくことへと移していただき、自分の十字架を担って主に従うように求めつづけていきたいのです。
(小樽オリーブルーテル教会牧師 木村繁雄)
