キリストの心(教会だより2022年3月号)
2022.3.14

「十字架の主にすがって」
出エジプト記20章2節
ローマの信徒への手紙5章21節

 四旬節に入り、主の受難のときを迎えています。灰の水曜日から、わたしたちは普段にも増して自分の罪深さを思わされるときです。聖書を通して語られているみ言葉を聞くとき、正直に向き合うと、愚かな自分の姿が浮き彫りになって来ます。

 み言葉に照らされますと、わたしたち人間が守るべきみ言葉の前で、よくよくみ言葉を聞けば、そこに示されている、あるべき人間の姿と比べて自分という人間が、それとは違っているかが知らされます。

 実は、わたしは聖書を読み始めた当初、自分は結構それを守っている方ではないかとの思いを持っていました。そして、守っていない世の中の人たちは何と悪いことか、などという思いを抱いていたものでした。自分がみ言葉を守れていないとは知らなかったのです。

 やがて、み言葉を他人事のようにしか聞いていない自分を知らされるときが来ました。よくよく教えてもらうと、何と、戒めの一つも守れていなかったのです。十の戒めの最初の「あなたはわたしの他何ものをも神としてはならない」という、そもそも、そこから守れていない現実がありました。

 自分が物事の判断の中心に立っていて、自分が正しいと思うことが正しく、自分が間違っていると思うものが間違っているとしていたのです。神様の言葉さえも、自分の基準で「これはいい」とか、「これはどうだろうか」などという思いで裁いていたということでした。

 神様以外のどんなものをも神としてはならないと教えられているのに、それに逆らって、自分を神の座に置いて、神様さえも、自分の基準で善し悪しを決めるようなことをしている自分であることを知らされたのです。

 しかも、これは簡単には自分を離れない思いであり、感覚であって、そのような所に立たないようにしようと思って、見直そうとしても、気がつけばそこに立って物事を見ているところに居続けてしまっているのです。

 もう、既に呆れてしまう程に繰り返して来てしまいました。直らない自分に失望し、もう駄目だと思って、ごめんなさいと謝りつつも、同じことを繰り返しており、終わらないのです。

 最早、自分ではどうにもならないこの現実に対して、神様が手を差し伸べてくださっていました。イエス様です。み子イエス様がわたしたちの中に、同じ人間として来てくださいました。わたしたちの現実を受けとめてくださいました。

 この救いようの無い者のために、通常では有り得ない道を造ってくださいました。この滅ぼすべき人間を救い出すために、本来あるべきルートとは違う、有り得ない方法で救いの道を造ってくださいました。滅ぶべきこの人間の滅びを受けて十字架についてくださいました。

 神様がそうしてくださったと信じる者を、救い出してくださると約束してくださいました。死んで、復活してくださり、この滅びるべき者が滅びから命へと、生きる者へと向かっていかれるように導くと約束してくださいました。

 相変わらず、み言葉に従い得ないままですが、このような者を憐れに思ってくださり、あのイエス様の十字架によって赦す。そして、ご自分のみもとへと導き入れてくださると言ってくださいました。その言葉を信じて歩んでいきたいと思っています。

(小樽オリーブルーテル教会牧師 木村 繁雄)