昨年の大震災による津波と原子炉爆発による放射能問題、等々と痛ましく、悲しい、苦しい現実が、未だに癒えない中、新しい年を迎えました。艱難の前で、私たちは何もできない器であることを痛感させられます。しかし、いつの時代でも、痛ましい苦しいさまざまな問題はあります。このような言葉は、家や仕事を失い、その上、愛する家族さえ奪われた人たちに、そのような状況の中に置かれていない者が、安易に使うことは不遜であると思いつつも、人の歩みの前には、想像もしていない苦しみや悲しみが、いつでもあるのです、と言わせていただきます。平和に慣れ親しんでしまった私たちは、自分たちが、平穏無事に歩めるのが当たり前のように思っています。しかし、希望の光を見いだすことがなかなかできず、辛い苦しい現実の中で生きて行かざるを得ない状況に置かれることがあるのです。
私は、イエス・キリストの降誕というクリスマスの出来事に出会った『羊飼いたち』に、その状況を垣間見る思いがいたします。彼らは毎晩、寒い夜空の下で野宿しながら、夜通し羊の番をする生活でした。どうして自分はこんな苦しい辛い生活をしなければならない羊飼いの子として生まれたのだろうと、思う生活でした。その羊飼いたちの上に、天使の声が響きました。彼らは、その天使の言葉に従って乳飲み子を探し、飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見て、神をあがめ、讃美しながら帰って行ったとルカの記者は語ります。彼らが、飼い葉桶の中に寝かせられた乳飲み子イエスを見ても、彼らの生活は、何ら変わらなかったのです。しかし、寒い夜空の中での厳しい仕事は変わらずとも彼らの心は、変わっていたのです。
私たちの生かされ方は、この羊飼いの中にあるように思います。苦しい辛い現実の中に置かれていようとも、家畜たちの食べ物入れに寝かせられた乳飲み子イエス・キリスト、やがて人の罪のために十字架にかかられたイエス・キリスト、そして復活されたイエス・キリストを見る時、私たちは、苦しい、厳しい現実の中にあっても、神をあがめ、讃美しながら、歩む道へと送り出されるのです。そして、主イエスのみ心を心にとめ、人の痛みを覚え、祈る道が示されているのです。心新たに、主イエスの希望に信頼して歩む年でありたいと思います。 |